あなたは、どこから来たか、また、どこへ行くかを知っていますか?
ヨハネ 13:3-5「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」
イエス様は、ご自分が神から出て神に行くことを知られました。そのゆえ、人に仕えることができました。
本当に人に仕えることは、キリストから生まれたこと、そしてキリストへもどるという啓示から来ます。
この啓示がなかれば、私たちは、自分のアイデンティティを確立するために、人を利用してしまいます。
この世の考え方はこの通りです。これが普通です。
人は、小さい時から、人にどう思われるか、また、人の目を気にして行動するように教えられています。
「そんなことしてたら、恥ずかしいよ!」子供達は、いつも親からそう言われて、しつけられて来ました。
人への恐れです。罪の心の中心にあることです。
世の中を見ると、人々は、いろんなものによって自分の価値を図っています。
お金、所有物、財産によって、自分のアイデンティティを得る人、
自分の容姿、賜物、能力によって、自分のアイデンティティを得る人、
自分の知識、功績、資格、学歴や肩書きによって、アイデンティティを得る人、
これも、全部最後に火に焼かれたら、何も残りませんね。
はっきり見える時もありますが、多くの場合、心の奥にある価値観は表面からは見えません。
私たちクリスチャンは皆、この罪の本質を毎日のように、十字架につけて、死んだものだと思うべきですね。毎日のプロセス。
ローマ 8:13「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
エペソ 4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
心の一新によって自分を思いを変えることと同時に、自分のアイデンティティがイエスだけにあることを確認するプロセスです。
私たちのアイデンティティは、人から来ません。
イエス様はこのことでパリサイ人を厳しく懲らしめられました。
主がパリサイ人についてこう言われました:
マタイ 23:5「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」
人からの栄光を得るために行動すると、パリサイ人のように人を利用するようになります。
また、思う通りにいかなかったら、怖くなって、人を操り、コントロールするようになります。
また、仕えたのに、感謝されないと、すぐに腹が立ちます。
そして自分の価値とアイデンティティが壊されてしまいます。
シンプルチャーチ、弟子作りの中では、大事なことです。
上手くいかない時があります。
人は、自分が思う通り、期待する通りにしないことが多い。
せっかく、数ヶ月間、数年間をかけて、育てた人が離れて、もう関わりたくないと言ってくる。
がっかりする、失敗する時もあります。
人を手放して、信頼するのではなく、コントロールしたい時もあります。
その中、私たちのアイデンティティもやられてしまうなら、続けれられないですね。
でも、イエス様も同じような失望を経験しました。3年の間、一生懸命育て上げた弟子たちの一人として、十字架にかかるイエスの側で、友としてそこにいてくれる人はいませんでした。みんな、他人のふりをして、彼を裏切りました。
なので、私たちも一つ一つをイエス様に委ねて、改めて、人に仕える心から前進しましょう。
みなさん、私も含めて、少し自分の心を探り、吟味する時をもちましょう。
難しい質問ですが、一つずつ考えて祈りましょう。
ピリピ 3:8-9「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
この質問を考えましょう。
- 自分の仕事、奉仕、役割を全て手放すことはできますか?
- 評判、名誉、肩書き、役割を全て、明け渡して、捨てることはできますか?
- パウロのように、人間の褒め言葉、人間の注目を「ちりあくた」として考えていますか?
- 隠されたところで祈りや断食はできますか?誰にも見られないところに奉仕はできますか?それとも、人に見られたいですか?
- このことについて、神様に捧げるべき偶像はありますか?
みなさん、最後に言います。
私たちは皆、成功したい。上手くやりたい。認められたい。それは悪いことではありません。ただ、イエス様が指摘してくださった偽善は、大きな邪魔です。上手くいくこと、認められることが偶像になると、私たちが偽善者になります。
へりくだっているなら、すでにこのプロセスの中に進んでいます。偽の謙遜もいりませんよ!
自分で探り、自分で掘り出すことをしないでください。
聖霊様に聞いて、聖霊様が指摘してくださることを一つずつイエス様にゆだねましょう。
そして、イエス様のように、どこから来たか、また、どこへ行くかを知り、邪魔物を全て脱ぎ捨て、心から人に仕えることができるように、これからもますます変えられていきたいとのぞみます。