投稿者: Onfire Japan

「祈りの戦略 」ビル・ジョンソン

「祈りの戦略 」ビル・ジョンソン

使徒4:29、30。使徒19:23〜38、エペソ6:12  使徒の働きの大きな流れを見る時に、あるパターンを見つけます。 聖霊が注がれ、人々が加えられ、反対と迫害が起こり、それに忍耐することに成功した時に増化するということです。ペテロが宗教リーダー達に捕らえられ、投獄され、解放された後、教会はこう祈りました。「もっと大胆さを与えてください」彼らは政治的に非難され無いように祈らず、ますます「大変なこと」が起こるような祈りをしたのです。キリストの為に立ち続けるなら、非難や迫害は避けられ無いのです。 神は「論じる為の声」を立てました、それはパウロでした。 彼の知性と訓練は非常に卓越していて、救いのすぐ後にも、人々と、信仰やその当時の社会状況を論じていました。そして、19:35では「町の書記」を立て、彼がたとえ異教徒であり、神を信じず、悔いあたらめなくても神は「論じる声」としてもちいて、パウロや信者の命を守りました。今この時に私達は「論じる為の声」が本当に必要です。優れた知性が聖書を土台として、真理から汲み出して、現在の状況を「論じる」事をする人が必要です。聖書箇所を引用し、説教する者の意味ではなく、異教の民の中において、実際的に優れた知性を持つ「声」が必要です。 数十年前に多くの宣教団体が集まり、10・40の窓という緯度、経度でできる主にイスラム圏の為に祈るフォーカスを決め、教会、とりなして達は祈ってきました。そして今、イランでも200万人の若者がイエスを信じています、多くの人の前に主が現れています。ですから、私達はそれを祈り続けるように、自分達の国の「鍵となる人々、リーダー達」に神ご自身の現れがある事を祈りましょう。

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「父達を解き放ち、天の父を現す」ポール・マンワリング

「父達を解き放ち、天の父を現す」ポール・マンワリング

今日は父の日ですから、「父達を解き放ち、天の父を現す」事を分かち合います。「父の日」と聞いた時に、多くの異なる事をそれぞれの人は考えます。 痛みや、苦しみ、喜び。または、自分は良い父ではない、失敗した父だと思う人もいるでしょう。 イエスは子として、父を現す為に来られました。私達も子として、天の父を現す事を役目として受け取っています。 敵の嘘を信じる事によって、私達が偉大な父達になる事は妨げられています。ですから、今日はその嘘を捨てる時です。一つ目の嘘は「私には父がいないから子ではない」という事です。私は父が32年前に亡くなり、その日から息子である事をやめましたが、主はその事を啓示され、私は悔い改め、「孤児」ではなく「子」となりました。 「良い父を持っていないから、良い父にはなれない」ことも嘘です、イエス様の事をみてください、かれはダビデの子と呼ばれました。ダビデは「殺人者、姦淫者」でしたが、その息子のソロモンは私は父から学んだと、言ってもいます。「自分より、達成している人の父にはなれない」事も嘘です。自分より多くを持っている人でも、励まし、愛される事が必要なのです。普通には自分ができない事を子達ができるからといって、自分は父になれないとは考えませんが、神の家族の中ではそう思ってしまうのですが、それも嘘です。「自分は独身で子供がいないから父にはなれない」事も嘘です。この世には良い父達が、どれだけ必要とされているのか、わかりますか?これもイエス様をみてください。「期待されるように時間がとれないから父にはなれない」事も嘘です。私は自分の心がその人に息子として向いて、開いている事によってその人が私の父になってくれていると思います。 天の父を現す為には、息子達、娘達が立ち上がる事です、それには性別や、役目や、感情は特に関係ないのですが、アイデンティティーによって父を現すのです。女性が女性として、リーダーシップの中で仕える時に、何を見ますか?女性はコミュニティー全体を考え、次の世代を考え、継続できるかどうか考えます。これらはリバイバルの為に必要なものばかりです。

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「礼拝ー平和の戦い」ビル・ジョンソン

「礼拝ー平和の戦い」ビル・ジョンソン 

イザヤ60:18、62:10、詩篇8:2 、149:6  私達の戦い、霊的戦いは「肉と血に対してではなく、力、主権、暗闇の力」に対するものです。 私達が、主を賛美して、愛していけにえを捧げる時に主が立ち上がり、私達の敵に勝利し、私達に「あなたがたは勇士だ」というのです。喜ばしいことです。 イザヤ60:18 あなたの城壁を救いと呼ぼうとありますが、城壁はあなたを守る為です。安全の為。あなたは城壁の中にいるなら、悪魔が合法的にもっている。盗んで殺して破壊することから、敵の嘘に同意し無い限り守られます。これを新訳では、「救いのかぶと」と言います。ここでは、賛美は「門」とありますが、賛美は 栄光の王が入ってくることができる、主が来られるところです。 黙示録には「門」は真珠でできているとありますが、真珠は「不快」なことの中で生まれます。そのように、「不快」な時にあって、信仰によって、主の御人格をそこで賛美する時に「真珠」が作られているのです。ですから、苦しいこと、難しい時に敵の嘘に同意してしまうのではなく、返って「主を賛美」するのです。 私の父が亡くなった時、混乱や、苦しみがありましたが、私はそれらを「いけにえ」として主に捧げました。天においてはこれらの事はもうないので、地上でだけこのようないけにえを捧げる事ができます。62:10では「城門を通れ」とありますが、これは「犠牲を払うような賛美」をする事です。それは意図的な、慣れや心地よさを超えたいけにえを捧げる事です。それをすることによって、「この民の道を整え」という事が起こり、あなたの「犠牲的な賛美のいけにえ」は他の人がたやすく主の前に出る事ができるように、道を作る事が出来るのです。本当です。例えば、サンフランシスコでは賛美を捧げる人、福音を伝える人の2チームに人を分けて奉仕をしたら、今まで非常に難しい場所で、救いが起こるようになりました。これは、霊的な環境が清められたという事です、光で満たされたのです。 詩篇149:6「神への賞賛・ハイプレイズ」は、異言で賛美するように、流れるものであるけど、思いを通し、私達の思いを通して捧げらえる、自発的な賛美の歌です。

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「礼拝ー信仰と自由と働き」ジェレミー・リドルとエリック・ジョンソン

「礼拝ー信仰と自由と働き」ジェレミー・リドルとエリック・ジョンソン

ヘブル11:6、ヤコブ 2:17、18   礼拝という言葉を説明しようとすれば、多くの意味がありますが、私は「神の心を喜ばせる事」だと思っています。だから、それは関係です。人を最も深く知っている人はその人に最も影響を与える事ができるように、神様と私達でも同じです。経験、出会うこと。私は礼拝の事は、両親から多くの影響を受けました、説明されて知ったというより、その文化の中にいて、受け取った、吸い取ったようなのです。礼拝が神の心に喜びを与える事ならば、信仰が不可欠です、信仰なしでは神を喜ばせる事はないからです。信仰は、行いが伴うのです。信条を信じていると頭で知っている事が聖書的な信仰ではなく、「行い」で信仰を表すのです。自由の中を歩くにはどうしますか?恐れがこなくなるのではなく、救いによって、恐れの奴隷ではない事、恐れに従わなくて良い事を実践するのです。 礼拝はヘブル文化から、ギリシャ文化に変えられてしまい、多大な影響を受けました。ヘブル文化では「礼拝」は働く、仕えるという意味です、一定の場所、期間、時間でいけにえを捧げるというのはギリシャ文化によって受けた影響ですから、私達は皆さんにチャレンジしたいのです。今日 この場所から出た時から、24時間あなたのする事全てが主への捧げ物になる事をしてください、家族と時間を過ごす事も、レストランで食事をする時にも、銀行で支払いを済ます時にも、このような礼拝は 教会堂、教会という壁で囲われた所以上のものです。

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「礼拝とは賛美の立ち位置につくこと」ブライアン&ジェン・ジョンソン

「礼拝とは賛美の立ち位置につくこと」ブライアン&ジェン・ジョンソン

ヨハネ4:23、24 礼拝とは、「賛美」をする立ち位置につくこと、賛美の心であること。なぜ礼拝をするのか、それは神様がふさわしい方であるから。神に礼拝されることが必要なのではなく、私達が主に捧げる賛美によって変えられるのです。私達が賛美の心から、礼拝をしないのなら、それは音とアクションにすぎない、賛美の心によってそれは礼拝になります。 ダビデは、羊飼いの時、敵から逃げている洞窟の中で主にあいました。礼拝していました、そして王になった時にも、心と思いと力を尽くして礼拝しました、だから、神は「私の心を追い求めるもの」と呼んだのでしょう。 手を上げて、礼拝することは、神様が私達の心地よい、慣れているゾーンから出て、もっと神様のいる場所に出てきて、会うことを招待しているとも思います。楽器で「預言する」とビル師は言いますが、それはどういう意味ですか?それはダビデが竪琴を引いた時に、サウルから悪霊が去ったように、楽器をとおしての賛美で霊の領域、周りの霊的な環境を変えるのです。ですから、歌の歌詞を歌っていなくて、楽器を演奏している時に、それは、すぐことがないから演奏を継続しているのではなく神はあなたの使命を音楽をとおして語っているのです。それを受けてください。 礼拝は教会で集まり、歌を歌うことではありません。あなたの人生を主に捧げる、その中で生きることです。いつも、礼拝者であることです。 新しい歌を歌うこと、主が賛美の中に住まわれる賛美ですが、心にあるものを外に表すのです。すでに書かれた歌ではなく、その時に自発的に主に歌うことです。

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「礼拝は崇高な召し」ビル・ジョンソン

「礼拝は崇高な召し」ビル・ジョンソン

エゼキエル44:15、16。詩篇100篇、出エジプト20:19 私達ベテル教会は、礼拝者として預言的な事柄や癒し、神の御声を聞く事を学んできました。そして、礼拝は私達の教会の土台であり、そこからすべての事は流れてきます。 私の父が70年代始めに、「神に向かって歌う」事を礼拝の教えのなかで、語りました。それまでは「神の事を歌う」賛美であったので、大きな移行になりました。 父なる神は礼拝者を求めているのです、礼拝ではなく、礼拝者です。神は愛なる方で、その動機はすべて愛です。その方が礼拝者を求めていて、私達をそのためのデザインで作られたのです。それは、私達にとっても礼拝は「御子の姿に変えられる」事を起こすからです。 感謝、賛美、礼拝、これらは同じではなく、感謝を捧げる事は、神が私達にすでにしてくださった、出来事を思い出し、感謝を捧げる事です。感謝の心を持つだけでなく、感謝を捧げる事は、「口に出す」必要があります。賛美は「いけにえ」ですから、自分の感情や、都合によるものではなく、犠牲を払うものです。賛美は異言を通しても、捧げられますが、「思い」を尽くして、主を愛する事に召された私達は「思いめぐらせる」「脳を使う」事が必要です。礼拝は自分自身を主に捧げる事です。 イスラエルの民は「祭司」として主に仕える事を召されたにもかかわらず、それを否定しました。彼らは「すでに決められた制限、ルール」である律法を持つ事を選び、個人的な交わり、つながりを主と持つ事を拒みました。しかし、イエス様に感謝します。主にあって、私達は王である祭司とされたのです。

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「今日は七日目です」ビル・ジョンソン

「今日は七日目です」ビル・ジョンソン

ヨシュア1、3、6  今日は具体的に、4つの部分に特に打ち破りがある事を信じます。経済、関係、健康、ミニストリーです。多くの皆さんは、ベテル教会に夢やビジョンを持って、それらが実現するために犠牲を払ってこられています。私達、教会のスタッフは非常に感銘を受けていますし、またその皆さんを神の軍隊としてしっかりと、共に立ち、囲み、支えたいのです。 ダビデ王がウリヤを殺した時、彼はウリヤを戦場の最前線に送り、味方の軍隊を全て戻し、敵の軍隊にウリヤが殺されるようにしました。ウリヤは素晴らしい軍人でしたが、敵陣の前で立った一人で残され、勝利できる準備はなく、味方の軍隊と共に戦い勝利を収める人でした。 そのように私達も、皆さんがリスクを取り、大きな経済の捧げ物やビジョンの実現のための戦いに出る事を励まし、送り出し、そこからは支えないというようにしたくはないのです。ですから、後ほど時間をとって祈ります。 ヨシュアはイスラエルの民を導き、約束の地に導き入れましたが、3:5では民に「身を清めよ、主があなたがたのうちで不思議を行うから」としました。イスラエルは過去にも主の不思議を見てきましたが、主が新しい季節、約束の地に導くには、聖別された心が必要でした。それはもっと重い主の臨在のため、主の臨在を今まで以上に繊細にわかるように、それによって進むため。「原則」だけでは進まず、それに勝って主の臨在が必要。重い臨在は聖別されていない心を壊していまいます。 しるしは、私達を新しい場所に導きます、しかし出口のしるしがあっても、そのしるしから外に出る事はできませんね、しるしは出口を指し示して、人が出口に着くようにするものです。新しい所に進む時はしるしが必要です。 エリコでは、城壁の周りを6日黙って周り、7日目に7回回って、勝利と喜びの叫びをあげる導きでした。1日目、2日目にも変化はなく、6日目にも変化はなく、しかし7日目に7回城壁を回った後、従順で勝利と喜びの叫びを上げた時に城壁は急に崩れました。ナアマン将軍のツアラトも7回ヨルダン川に身を浸した時に、癒されました。7分の1ずつ癒されたのではありません。 エリコ城壁が7日目に壊れたように、今日はあなたの打ち破りの日、城壁があなたの使命を止めているのが終わる日です。急に、打ち破りがきます。

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「息子達としもべ達」ビル・ジョンソン

「息子達としもべ達」ビル・ジョンソン

マルコ10:35〜41、ルカ22:46、ヨハネ13:3、4 ヤコブとヨハネが、イエスの所で「あなたの栄光の座の右と左に座らせてください」と願い、イエスは「あなたは自分が何を求めているのかわからない」といいます。私達も彼らのように、自分たちが祈っている、願って求めていることが、本当はどんな事であるのかを知らないのです。しかし、恵によって私たちは願い求め、それによってイエスが私達の器を作るように導かれる。祈りに応えてくれ、与えられる祝福を受けて私たちが生きるように、すべての成長の為の躾や訓練は良いものです。 イエスがゲッセマネの園で祈っていた、弟子たちは眠ってしまった。私達は、痛みに対して色々な方法で対処します、食べる事、寝ること、買い物、色々ありますが、でもイエスは「切に祈ること」で対処されました。イエスは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」といったように、私達も誘惑されるべきでないことに誘惑をされるならば、祈って主の臨在に入っていきましょう。 イエスが自分が神の子であって、神から来て、神の所にいかれる事を知った時に、しもべとして仕え、力つよい模範を示されました。神の子、息子は父の無限の資源にアクセスできる事を知っています、神の目的、使命をしっているので、希望を持って仕えます。息子は希望をもって、神の御国を地上で建て上げる為に仕えます。

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「死を恐れない」エリック・ジョンソン

「死を恐れない」エリック・ジョンソン

ルカ23:44〜24:32 よみがえりの日曜日のメッセージです。 旧約聖書のテーマはなんでしょうか?私は「神は最初から民と共にいることを熱望された」と信じています。しかし、多くの場合、信者が旧約聖書をよく理解していない故に、人を殺す、恐ろしい神、神は怒っている、などのフィルターをつけて見てしまいますが、覚えてください、創造の第1日目から、神は人と一緒にいたかったのです。 アダムと一緒に散歩し、アブラハムに天の星を見せ、雲の柱、日の柱で現れています。モーセには、人と神が出会う場所として「幕屋」を作らせましたね。神は人と共にいることを熱望しています。 23:45 太陽は光を失っていた。また神殿の幕は真っ二つに裂けた。神殿の幕が二つに裂けた時に、見えない領域 霊の領域において全てが変わりました。全く変わってしましました。人が罪によって作った巨大な淵、神と人を分ける距離がなくなったのです。46節、イエスは「我が霊を御手にゆだねます」と言います。イエスは命を「捧げられた、ゆだねられた」のです。誰もイエスの命を奪うことはできませんでした。 イエスの死、よみがえり、によって イエスは 究極の神殿、宮でのために唯一の生贄をささげられました。あなたがその究極の神殿です。あなたの内に聖霊は住まわれます。 イエスが死なれら時に、死は力を失いました。ですから、私たちにとって、死は最終ゴール、終わりではなく、第一部終了のようなものです。

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「満ち足りる心を見つける」エリック・ジョンソン

「満ち足りる心を見つける」エリック・ジョンソン

ピリピ4:10〜13、コロサイ1:15〜17  パウロの書簡の中心には、いつでも「喜ぶ事」が書かれていると私は思います。。私が彼の人生を思って、それを考えると、非常に心に響きます。なぜなら、彼は福音を語ったが故に、精神的、肉体的にひどい迫害を受け、拒絶され人だからです。そしてピリピ書でも、貧しい中でも、富んだ中でも「満ち足りる事を学びました」と言っています。驚きます。彼はなぜ、迫害や困窮の中でも「満ち足りる」事が出来たのでしょうか? もし、「満ち足りる」事が目に見える状況や、物理的、霊的な事からの結果としてもつものであるならば、その人の満ち足りる心は1週間ごとに上がったり、下がったりするジェットコースターのようでしょう。しかし、私はパウロの満ち足りる心は「イエスキリストの故に」という事から来ていたと思います。ですから、「いつも喜んでいなさい」という事も、強制や意志の力によって喜びぶことではなく、イエスキリストの故に喜び、勝利していたのだと思います。コロサイの1:15〜17は、非常に深く、まるで真理が凝縮されているようですが、パウロはこの事を理解していました。結局は、「イエスキリストの故」なのです。 賛美は王が来られる為の道をスムーズにします。私の娘達が小さかった時に私が帰宅する車をみて、娘達が「パパが帰ってきた!!」とソファーから飛び上がって、私を呼ぶ声は私が部屋に入る事を早めました。感謝の心を働かせてください、それはイエス様をあるべき人生の中心に戻すものです。

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