投稿者: Onfire Japan

「目的のある繁栄:創造する為に造られた」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:創造する為に造られた」ビル・ジョンソン

創世記1:28、詩篇67篇、マタイ28:18  神は私達を問題を解決する為に、混乱や暗闇のまっただ中に置かれます。創世記1:28では「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ」とありますから、「従える事」はそこに敵の存在や、混乱がある事を意味しています。 主は最初にエデンの園を造り、アダムとエバを通して、人類の増加によって、園が地上全体に広がって、神の御国、神を自発的に愛して礼拝する者が地を満たす事によって栄光で地を満たし、悪魔のいる所が亡くなる様にと計画されました。しかし、アダムが神に背いて、悪魔に従った時に「鍵」権威を失ったのです、ですから、後にイエスがその鍵を死とよみがえりを成し遂げるまでは人に対して神は「地を従えよ」とは命じませんでした。ノアとノアの子孫達には生めよ、増えよ地を満たせ、祝福されましたが、地を従えよと命じなかったのはそのためでした。 しかしイエスはマタイ28:18で「わたしには天においても、地においても一切の権威が与えられています」と言ってから「あなたがたは出て行って〜」と働きを与え、送り出しました。これはイエスが悪魔から鍵を取り返して、信者に与えた事です。 創造的に問題解決する事は信者の普通の事ですが、敵は邪魔するために焦り、恐れ、ねたみなどを持ってきて、信者が集中できない様、気力が奪われる様に仕組んできます。経済的に「足りない」と思い続ける事もそうです。詩篇67篇のように、神の祝福が、信者の上にあり、その祝福を周りの未信者、国々が見る事で、神の性質が見えるのです。私達の説教ではなく、私達の人生が周りの人が読む事のできる開かれた本なのです。それで、人々は天の父が愛のある、恵みあふれる神であると知る事ができます。 教育、音楽、政治、などの多くの分野で事に神のミステリーが解き明かされる事で、新しい方法、問題解決が来る事を信じます。

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「目的のある繁栄:任された祝福」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:任された祝福」ビル・ジョンソン

詩篇67:主は「聖と世俗」、「自然と超自然」にひかれてしまった、分ける為の線を消していると思います。 主はイスラエルの民を荒野で訓練しました、それは奇跡によって彼らが毎日生かされ、主の御手によっての「超自然、奇跡」による祝福を経験しそれが、主からのものであると認識する訓練であり、その後に約束の地に入って、彼らがマナではなく、自分達が蒔いた穀物、「自然の働き」に主の御手がおかれ豊かな繁栄があった時にそれが主の祝福であるとも分かるためでした。 主の召しを受けた時に、それは「自然・普通」なものが「超自然」なものになります。「自然 普通」にあるものを使っての、働きや仕事であったとしてもです。歯科医、労働者、母親、どんな働きでもそれは主の召しを受け取った時に、その働きを「主への捧げもの」としてする時に、それは主が見える様に現れて下さる臨在を引き寄せる、主にとって魅力的な捧げものになるのです。使徒パウロがテントを造った時に使ったタオル、エプロンが病を癒し、悪霊を追い出した事から神が私達に教えたのは「自然、普通とされる仕事」を主の為にする時に、聖なる働きとなる事であり、そこには力がある。 詩篇67篇は 主の良さ、祝福を主は私を通して、国々、全ての人々に見える様にして、その事でリバイバルがある事を見る事ができます。神の祝福は、ある特定な人々だけでなく、すべての人に注がれるものであり、それが神の願いです。その為にも私達は祝福の神学の上にしっかりと立つ必要があります。1、2節のように、私達は主の道が国々で知られる、良さが知られる為に祝福を求め、それを良く取り扱う事、それによって神の道が国々に知られ、リバイバルが起こる事を任せられているのです。

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「目的のある繁栄:ちゃんとやろう」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:ちゃんとやろう」ビル・ジョンソン

2コリント9:7〜11  「貧しさ」というのは物が無いとか、現金がないということではなく、心の中の状態。敵は、真実をねじ曲げる、極端にします。たとえば、あなたが物質的に豊かで沢山のお金があれば、霊的に成熟している、またあなたが人生で貧しければ、霊的に成熟しているというふうに、両極端にずらしていく。貧しさは神の物ではなく、反対にイエスの贖いによって「罪、病、貧しさ」の力は壊されたのです。 どれくらいのお金を手にする事が「多すぎる」のでしょうか?それはあなたの信頼が神からお金に移ってしまう時です。神は具体的にどれくらいの経済を私達が持つかに対してはあまり興味がないと思うのです。関心があるのはどこに信頼するかです。 蒔く種と食べるパンー豊かに与える事と義の実の繋がりをもう一度見て下さい。豊かに与えるものは、義の実、永遠の領域に影響を与えるのです。種は 将来の為に蒔くもの、パンは自分の個人的な楽しみの為であり、種を食べてしまっては、来年の収穫はありませんが、パンを植えても収穫もなく、パンは無駄になってしまいます。 イエス様の人生の周りの「豊な人々」によって主は「豊かさ」を通して助けを受けられました。ですから豊かさは不品行ではないのです。しかし、私の弟子訓練の背景によって牧師である私はビジネスや投資、売ったり買ったりには絶対に関わらず、主の超自然的な満たしにいつも信頼すると思っていました、でも考えは変えられました。種は「投資」の為に使い、その収穫から他の人のため、御国のために使うための物でもあると分かりました。ミナとタラントの例えで叱られたのは預かったお金を増やさなかった僕です。主の心は増加、前進です。

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「目的のある繁栄:まことの豊かさ2」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:まことの豊かさ2」ビル・ジョンソン

マラキ3:8〜11、エペソ4:28、ルカ16:10  私の心にあり、燃えている事は皆さんが神様の計画、使命の中を、満ち満ちて行く事です。その為に私は動かされています。教会やミニストリーが大きくなる事でなく、大きな人を育てる事です。聖書の中には「繁栄」の原則があります、これを無視する事はできません。たとえ繁栄の教えを誤用している人々があるとしてもです。繁栄には目的があります、それは「神の御国」が拡大することです。 神からの祝福は内容に関わらず、全ては「金の子牛」を造る可能性はあります。私達が神の御国、神の価値、原則から目をそらしてしまう時です。 神様の原則の一つは「見える領域」の事柄で大胆に従順する事で、「目に見えない領域」に影響を与えること。それはマラキ3章にあるように十分の一献金を捧げる事で、霊的な祝福、私達が心から願っている事を受けるという事です。決してお金で霊的な祝福を買うのではありませんが、成熟する時には、代価を払う事が伴います。十分の一献金は地方教会、あなたの養われている教会にするとあらかじめ定められています、献金は自由にあなたの重荷のある所に捧げる事ができます。自分が食べたレストランで会計をしないで、違うレストランに支払いをする事がありえないように、十分の一献金の捧げ先は主によって定められているので、自分の都合で変える事はできません。 ルカ16:10から見る事ができるのは不正な富(この世の経済)をどのように取り扱うのかによってどれくらい真の富が任されるのかをはかる事ができるという事です。 箴言は教えています、富を追い求めてはならない、知恵を求めよ。結果として富をもうける。しかし、主により与えられた富、満たしを求めてしまうなら、今度は満たしと知恵も失ってしまうことです。これは私達が結果的に守られる為のテストになります。

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「目的のある繁栄:まことの豊かさ 」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:まことの豊かさ 」ビル・ジョンソン

目的のある繁栄シリーズの2回目です。 マラキ3:8〜11、ルカ16:17、マタイ22:17、創世記14:18〜20 マラキ3:8〜11 十分の1を捧げるということは律法から来たと思っている方もいますが、そうではなくこれはアブラハムから始まりました。創世記14章にありますが、アブラハムはメルキセデクにすべての収入の十分の一を捧げました。それは神を敬う為でした。モーセが400年後に律法に書き入れ、批准されましたが、これは信仰の父であるアブラハムによって始められました。十分の一を捧げる事をリックジョイナーが神の造った地球に住み、空気を吸っているからこれは家賃のようだといっていますが、私はそのアプローチを好みます。 マタイ22でイエスは「神の物は神に返しなさい」といったのは、私達の所有物の中に私達の物でないものがあるので、それは「返す」または「支払う」ものであり、「与える」事はできないという意味です。マラキ3章で分かる様に十分の一を与えない事で「いなご」が入ってくる権利を敵に与えてしまい、それは神がのろうのではなく神の言葉に不従順になる事で、神の守り、祝福から自分で出て行く事、その結果は神の御心ではないのです。ですから、十分の一献金をする人も、しない人も、それはその人の物にはならないのです。主が私達を訓練する時に、使わない物を持たせて、使わない事で、管理する事を訓練されます。自分の物でない物をよく取り扱えるなら、自分のものになる物を良く取り扱える事とされるのです。 他の聖書箇所では「わたしを試してみよ」という神の言葉を見つける事はありません。ここだけです。開いた天が経済のことだけでなく、それは主の臨在そのものであり、経済、健康などの祝福が来るのです。マラキは自然界の従順(十分の一献金)を霊的な打ち破りに結びつけています。主は私達を召し、それぞれの置かれた所で、文化や価値観に影響を与え、歴史の流れを作る為にもちいられますが、経済をどのように取り扱うのかを私達が学ばなければ、それはする事ができません。繁栄とは、神の御国とその義を追い求めた時の副産物です。そして主は悲しみをもたらしません。しかし、もし繁栄を追い求めた結果が繁栄なら、そこには犠牲を伴います。私達の土台はイエスの主権です、それ以外の人道主義、宗教のシステムを混ぜて建てるものならば、耐え忍ぶ事ができず、違う場所や文化に適応する事もできないでしょう。

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「目的のある繁栄:宣教」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:宣教」ビル・ジョンソン

マタイ28:18、20 使徒8:1〜8  ベテル教会で、今年1年で1億円以上の献金が世界宣教の為に捧げられましたが、これは急激な成長、変化です。また、この教会に集う為に色々な場所から引っ越してきた方達がいますが、それは私達にとって感謝な事です。私達は家族であり、部族であり私達の頂いた好意は分与され、うつり、広がって行く物です。恵みで与えられた好意を用いて行きましょう。 使徒の働き1章では「地のはてまで私の証人となる」とありますが、8章で信者は迫害が起きるまではエルサレムに留まっていたのです。イスラエルの民が黄海の水の壁の間を歩くのには彼らの背後に迫っていたパロの軍隊が大きな動機となったでしょう。悪魔を恐れないで下さい、神は悪魔をご自身の計画の成就の為に使う事ができます。チェスの駒のようです。悪魔は神の敵ではなく、神の前に立ちはだかる事ができる「敵」は存在しません。神は人を悪魔のいる地上に置き、人によって悪魔を打ち負かそうとしました。人は失敗したけれど、イエスが悪魔に勝利し、その勝利の中から私達人が主の勝利をもって、地上を奪回する、治めるようにされました。 全ての人は「出て行く」「祈る」「捧げる」事が宣教の為に召されているのですが、全員が出て行ける訳で無い事も知っています。しかし、私の願いは皆さんが主に「私が自分の所有とするべきな国、地域は何ですか?」と祈り、受け取り、その為に祈り、捧げる事を実践してもらう事です。私は多くの経済を、収入が少なかった時にも、地方教会、宣教、貧しい人に与える事の為に必ず決めて捧げ、それを守り続けてきました。それらは全て永遠の為に使われていて、決して無駄になる事は無く、後にその結果を見る事ができるのです。場所や宣教師をそれぞれが「養子縁組み」する事をしたいのです。皆さんが偉大な経験をするためというより、皆さんの心の中に主とのパートナーシップをもつ道を造ってもらいたいのです。 ある方が言いました「一番遠くまで届いている光の一番明るい所は光のある所である」。時に人々は「まず、自分の家、地域に良く福音を伝えたら、世界に出て行こう」と言ってしまいますが、これは神の計画を自分たちの考え方にあわせて縮小させているものです。ダビデはバテシバの夫ウリヤを姦淫の罪の証拠隠滅の為に戦いの最前線に送り出して、他の軍隊を撤退させて殺しましたが、もし私達が宣教師を前線に送り出し、自分たちが撤退するならそれは同じ事ではないでしょうか。

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「永遠の希望」ビル・ジョンソン

「永遠の希望」ビル・ジョンソン

ローマ8:18〜33  私達は心を守る事が大切です。それは、落胆や失望から心を守る事は、希望を見る事、希望の声を聞く事を助けるからです。18節にあるように、今の色々の苦しみはこれから解き放たれる栄光には比べられないくらい小さいものです。その事を自分の心に言ってください。 時に祈りの答えを得るために時間がかかります、時には祈る前にまるで答えを受け取っているような事もあります。信仰は答えを得させますが、忍耐する信仰は人格を育てます。答えが遅くなっているなら、あなたの利息が増えている様なものです。あなたの益です。 しかし、私達が祈りの答えを「このようでなければならない」と決めつけてしまう事があります。多くの場合はとても重要であり、自分の大切な事柄に関してですが。その事によって、神様を独房に閉じ込めてしまうようなことであり、それによって、他の人生の分野で答えられている主からの打ち破りを見る事を妨げてしまいます。私達は主の心、願いを知っていますが、成就される過程は分からないのです。ですから、28節が必要なのです。栄光から栄光に移されてる間に私達が養われるためです。 新しく信者として神の国に生まれた時に、聖霊が私達の内に来られた時に、それはイエスを死からよみがえらせた力が私達の内におられるという事です。それは私達に永遠との繋がりを与えます。永遠に神との和解の中にいる事が保証されたのです。私がどのような者かではなく、私の中におられる主がどのような方なのか、それが私の希望です。

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「遺産を生み出すのは希望」ビル・ジョンソン

「遺産を生み出すのは希望」ビル・ジョンソン

ローマ4章  最近私は「夢のリスト」を新しくしました。皆さんにも夢がありますよね。それらのすべての夢は神様であると思います。しかしその現れ、見え方はそれぞれ異なります。 ある方がレバノンでクリスチャンテレビ局をする夢をもって、レバノンに移りましたが、直後国の状況は変わり、全ての機会のドアがしまり、結果的にテレビ局ではなく、福音を通信教育のようにして伝える事が開かれ、霊的に暗い地域で福音が爆発的に広がりました。 彼らはテレビ局をレバノンで始める夢がありました。動機は福音を伝えるためです。形は違いましたが、目的は達成されました。夢はまるで神様が住む事のできる不動産、家をつくり出す様に働きます。また、その夢も何が霊的、世的という用に分類しないでください。神様が中心にいれば全て霊的な事であり、聖書はそのように分類していません。実現可能の夢もあるでしょう、でも語るのが恥ずかしいと思う様な「不可能」を感じる夢もあるでしょう。でも、夢を神の前に出して、その夢に神の息を吹きかけていただきましょう。 ローマ4章でアブラハムの「望み得ない時に望みを抱いて信じた」とありますが、このような伝染する希望、周りに影響を与える希望は 神の約束を引き寄せます。神は良い管理人なので無駄にはせず、種が育ちやすい所を求めています。 アブラハムの持っていた希望はただ願うだけでなく、神の言葉、約束を握り締めて、期待する事でした。 ただ漠然と願っているなら、否定的な現実がやってくる時に立ち続ける事は容易ではありません。

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「街を回復する者が繋がる」ビル・ジョンソン

「街を回復する者が繋がる」ビル・ジョンソン

イザヤ61:1〜4  イエスはご自分の働きの事を1節から3節でシナゴーグでユダヤ人に宣言しました。ルカ書で見る事ができます。イエスが来たのは病人、砕かれた人々、壊れた人々の為だと言いました。そして、ユダヤ人達にあなたが自分が病人だと謙って認めるまで私はあなた方からは価値がないものですねと言ったのです。 偽の成熟さは定義や考え方はあっても、経験と感謝の心が無いのです。しかし神様は人々を成熟される為に動いています。そして、私達が聖さについて考える事も変化させてくださっています。 心が傷ついたもの、心身の病がある者、「壊れた者たち」が「街を再建する者達」なのです。彼らは「義の樫の木」になるとあります。樫の木は強く安定しています。 不安定な者が安定した者となり、最も弱いものが最も強くされる。弱さや失敗が成功に留まる事をさせます。 私達がどのように「壊れた人達」に価値を見いだすのでしょうか?取り扱うのでしょうか?人が救われた事を「信仰を持って信じる」事を私は必要としていました。 人が救われた時に、私達はインスタントに人が信者として成長すると勘違いしてまるで赤ちゃんを大人の用に見ている事があります。赤ちゃんが歩く事を練習する時に 両親は2歩歩けた事を喜ぶでしょう、3歩目に転んだ事を叱ったりすることはないですよね。 ある時 魔術師だった数人の人が預言されて、救われ、聖霊を受けました。そして、すぐ「自分たちは何をしたらいいんだ」と聞かれ、教会のスタッフが自分に預言してと お願いしました。それがこの「元魔術師」だった新しい信者の知っているクリスチャンの教会の全てでした。彼らは、知るはずも無い聖書を引用して預言したのでした。 この神の家族の生まれたての信者の皆さん、最初のステップを踏み出す事許可を与えます。そして、それ以外の方は父母として励まし、教えて行きましょう。

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「愛があなたの割当です」エリック・ジョンソン

「愛があなたの割当です」エリック・ジョンソン

マタイ22章33〜40節 1コリント13章 「愛」は全人類が切望しているものであり、もし私達が理解して、しっかりとつかまなければ、一生ほかのもで埋めようとしてしまうものですね。マタイ22章でイエスがパリサイ人の律法学者に「一番大切な戒めはなんですか」と聞かれて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せ」そして2番目は「隣人を愛せ」といったのですが、多くの事をこの2つがまとめていますね。 私たち信者は愛の事を聖書で知り、自分たちが愛するべきだから愛するという側面もありますが、それだけではなく、頭からの愛、理論的に正しいから聖書的に正しいから隣人を愛することではなく、もっと深い所心から隣人を愛せる様に神様に願う事をするべきだとおもいます。私は子供が生まれてきた瞬間に自分の中にあった「自分の子供が生きる為に自分は死んでもいい」という愛が目覚めました。これは、論理的でもなく、理解されない様な心からでてくる愛です。 多くの場合、私達は隣人を選択できません、時には愛するのが簡単な人でしょう、でも時にはあなたを憎む人や神を憎む人かもしれません。私が最近危機感を感じるのは神を非常に愛しても、人を愛さない人に会う時です。私自身こういう人にあうと「神様、私の愛する能力、許容量を広げて下さい」と祈ります。 時に私達は、自分に対しての主の願いが何かという事を求める事に時間を費やしすぎていると思います、私が気がついたのは、神の願いは私が隣人に対して何かする事なのです。その隣人が1人のなら神の願いはあなたがその一人に対して何かする事、その隣人が群衆ならその群衆にあなたが何かすることだと思います。 マタイ22章から私はこういいます、「一つの目で神様を見て、もう一つの目で人々を見る」。人生でシンプルな導きを求める時に、この原則をぜひ用いて下さい。主に求めて下さい「主よ、私がもっと人を愛する為の許容量を広げて下さい、あなたにその為の許可を与えます」

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