投稿者: Onfire Japan

「一新された思い」ビル・ジョンソン

「一新された思い」ビル・ジョンソン

「心・思いの一新」の事について長らく話しています。「一新された思い」を持つ時に、信者は神の視野,考え方を持つのです。イエスの公生涯の最初に「悔い改めなさい、神の御国は手の届く所にある」と言われましたが、その「悔い改める」とは「考え方を変える」ということです。 「一新された思い」はあなたの内側にある事、平和や勝利を外側の状況に対して広げて行きます。私達の内側にあるもの、神の御国が私達の外側の現実に影響を与えるのです。 イエスは船の中で嵐が来た時に寝ていました。そして嵐と湖を静めました。同じ様に私達は自分たちが寝ている事ができる様に平和をもっている所にしか私達の中の平和を解き放つ事はできないのです。 弟子達はイエスに「あなた達が群衆に食べ物をあげなさい」と言われました。イエスが、語ったなら、それをするための能力も一緒に与えられます。 変貌山ではイエスが「別の人」の様に見え、衣が「光り輝き」ました。超自然的です。一新された思いが、霊の領域を見て、考えていたのだと思います。イエスを見ていたので、3人の弟子にはこれはイエスだと分かりました。しかし、それのイエスは彼らがその時まで知っていたイエスではなかったのです。神の究極的な目的はあなたが改心する事ではなく、「主の満ち満ちた所まで、満たす」ことです。

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「不可能を生み出す事」ビル・ジョンソン

「不可能を生み出す事」ビル・ジョンソン

創世記18:1〜16、ヘブル11:11  「神の約束」を信じる事、その内を歩いて行く事は私やこの教会が熱心に実践している事です。その事で 今日は皆さんに「約束」によって妊娠してもらいたいのです。神は約束、言葉によって信者の中に種を与え、信者はそれを生みだします。「奇跡」という言葉は、子供が出産される事に対して最も使用される言葉ではないでしょうか? サラは主が現れ、「来年の今頃、男子がいる」と言われ、笑い、嘘をつきました。しかし、神は異なる物語をヘブル書に書いているのです。11章11節には「〜彼女は約束して下さった方を真実と考えたからです」とあるように これはサラの人生の「福音」の物語ですね。彼女の様に私達も皆、人生のなかで「福音」の物語を持っていますが、それはいつも神によって「上書きされた」ものです。サラは、ベブル書に書かれているようには、自分の人生を思ってはいないでしょうが、神がどのように考えるかが働き、影響するのです。サラは「〜考えたからです」とありますが、彼女のすべき事は「考える、思いめぐらせる」事でした。 神の子イエスが、マリアを通して生み出されたように、あなたの人生を通してで無ければ現れないイエスの姿があります。「主は国々の望み」という聖書箇所がありますが、この世はイエスのような王様を待ち望んでいます、そしてあなたを通して現れたイエスによって触れられる人々がいるのです。

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「預言者はどのように慰め、守るのか」クリス・バロトン

「預言者はどのように慰め、守るのか」クリス・バロトン

1コリ14:3、2列王記18、19章、イザヤ2章 私達が預言をする時にに中心にいつもなる事は「励まし、建て上げ、慰める」ことです。しかし、私がフェイスブックなどに「励ます・良い事を言う」事を主の名によってすると、「あなたは矯正をせず、叱っていない」と行ってくる人達がいますが、預言者は励まし、建て上げ、慰める人なのです。私の今書いている本「預言者の学校」の一部で、「預言者は国を守り、慰める」と下書きの後に書き進めるか葛藤していた時に主は「預言者は国を守り、慰めるのである、書き進めよ」と言われたので、そのようにしました。多くの預言者でそれを遂行した者達は旧約聖書から見る事ができます。イザヤ2章については殆どの神学者達は千年王国の後であると同意していますが私は、そうではありません。預言者は国々が敵の力、悪魔によって互いが戦う様に支配される時に預言してその戦をやめさせる事ができるのです。国に対して敵対して預言するのではなく、その後ろにいる悪霊の力に対してです。ヒゼキヤ王がイザヤに人を送り、預言してもらった時、主の御使いの働きが関与するような神ご自身の勝利を見ています。

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「奴隷、しもべ、友」エリック・ジョンソン

「奴隷、しもべ、友」エリック・ジョンソン

箴言8:22〜31、使徒2:17〜18、ゼカリヤ1:18〜2:1 イザヤ61:3.4、ヨハネ15:13.14 箴言、使徒の聖書箇所でみえるように、神は「信者、教会」に神の霊を注ぐのではなく、人類全体、全ての人を愛し、心を向けています。そして、イザヤ61:4で「壊れた町の再建、復興」とあるように、私達の地上での神からの使命は「町」に影響を与える事です。神は「町」に心をもっているのは皆さん知っていると思います。 それはどのようにして行われているのでしょうか?あなたの人生を豊かに、生き生きとその町で生きることです、町に関心を持ち、繋がり、人生を与えることです。それはまるで普通の事ですが、それを神の御国が拡大することを信じて行うのです。 ゼカリヤ書から私は「職人」たちが悪の要塞(角)を恐れさせたという事を見てわくわくしています。彼らは祈りや、霊的戦いによって悪の要塞を恐れさせたとはありません。職人というのは「知恵と創造性があり、高品質な働きをする事ができる人」と言う事ができると思いますが。あなたの得意な事は何ですが?やってみて下さい。あなたはそれをとおして町にある「悪の要塞」を恐れさせる事ができるのです。 私は人が主を受け入れたら、まず奴隷として働き、その後しもべに昇格して、その後、80歳くらいでやっと主の友になるれるとは思っていません。進級するようなランクではありません。友とは深い意味があり、真の友であるなら、奴隷や、しもべであること無しには真の友はないでしょう。 現在の使徒的な流れの中で、私は神はキリストの体の友となりたい、キリストの体を友としていると信じます。使徒や使徒的な働きは「天の設計図」を地にもたらすのですが、これは「友」として主人の心を知る事なのです。奴隷やしもべは「命令された事だけをします」と生きているので、多くの人はこの新しい季節、「友」として与えられた計画に私達が自分たちの得意な事、できる事をして行く時に、天がその計画に協力してくれる事に難しさを感じるのですが、私が決断に対して強調をしているのはその理由なのです。 あなたは町、市に対して、友になりますか?

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「よみがえり」ビル・ジョンソン

「よみがえり」ビル・ジョンソン

マタイ28章、ヨハネ11章 私達は御言葉を教えますが、もちろん、デモンストレーション実践ます。今日は主が「よみがえり」の命の力を実践されたいと願っていると感じます。 もし、私達の人生の中に「希望」を持つ事ができない所があるなら、その部分は嘘に影響されているのです。聖書的な「希望」はただ、願いがいつかかなったらいいな、できたらいいな〜という意味では全くありません。聖書的な意味の希望は「神のご人格による、良い事が自分の人生に起こる事を信じて楽しみに待つ」ような事です。それは、クリスマスの朝に子供達がツリーの下にある自分のプレゼントをあける前の喜びで一杯の気持ちのようだと例える事ができます。 ある方は希望、夢、仕事、結婚、関係、家族などの状況に、絶望があるかもしれません、しかし主が今日打ち破り、よみがえりの力を解き放ちます。イエスは「私がよみがえりである」だといわれました。主のよみがえりは私のもの、主のよみがえりはあなたのものなのです。 多くのとき「奇跡やしるしを見なければあなたは信じない」というイエスの言葉は、ネガティブなイメージがありますが、でも、もしイエスが私達の人生の事を知っていたら、どうでしょうか? 「あなたがたは奇跡を見ないと信じないね、それならここに奇跡がある、これで信じて下さい」というようにはかんがえられないですか? 奇跡の目的は私達が神を見て、信じることです。私達を神に導くことです。

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「恵みによって報いる」ビル・ジョンソン

「恵みによって報いる」ビル・ジョンソン

2歴代32:23〜26、2サムエル24:24  恵みは主の臨在が私達に力を与えて、不可能が可能になる事あり、それは私達信者がイエスが生きた様に生きる、弟子となって生きる為である。 現在ある教えは「恵みがあるから、罪を犯しても大丈夫」といって、恵みの意味を誤用しています。ですから、この恵みの話しをします。2歴代誌では「ヒゼキヤは自分に与えられた恵みに報いようとせず」とあります。恵みだけでなく、神の国の法則では、好意やプロモーションは、自分の益の為だけではなく、かえって周りに益を与える為です。ソロモンも彼に与えられた神からの好意は神がイスラエルの国を愛したからです。神からの好意、恵みを受けている時に、私達に感謝や賛美ではなく、「神だから親切であたりまえ」と思い、捧げる事に躊躇したり、反抗的になる時にそれは高慢さの中にあるのです。 恵みを受けたら、私達は「捧げる事」をします、それは「支払い」では全くありませんが、豊かに与える事の中に生きる為、私達は犠牲を払い捧げます。 また、「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」の目的は、私達が主の弟子となるライフスタイルを生きるためです。イエスの十字架の死、よみがえり、流した血潮で贖いは完全に達成されました。ですから、私たちが「十字架を負って」行く事は贖いの働きでなく、「主に従う、イエスの弟子となる」為のライフスタイルを整えるためです。

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「恵みは働くのです」ビル・ジョンソン

「恵みは働くのです」ビル・ジョンソン

出エジプト19章、 恵みの話しをしましょう。 旧約は「古い契約であり、律法」そしてそれは神が人が達成できない命令を要求するものです。神がそれをした理由は、それによってのみ救い主が必要だという事が現されないからです。新約は「新しい契約であり、恵み」それは律法によって神からの好意、受け入れられる為に必須であり、また人類には達成不可能な戒めから、「すでに受け入れられ、好意を受けているもの」と私達を変えたのです。ある信者達は全てが恵みの下にあるのだから、神は私達になんの戒めも、ライフスタイルも望んでいないと思っていますが、そうではなく、私達はもっと、難しい戒め、教えのなかに置かれているのです。それは、「殺すな」から「隣人を馬鹿者と呼ぶ者はハデスの炎が」という意味です。恵みは自分ではできない神の教え、戒めを達成できる様にしてくれます。ある信者は旧約聖書は全て律法なので私達は関係ないと誤解していますが、知恵は十字架で何が、終わり、変わり、継続しているのかを求めます。終わったのは「罪のための血の捧げもの」であり、変った事は「安息日」であり、継続しているのは「ダビデの礼拝」です。イエスが完全な罪の赦し、贖いの為の小羊ですから、もう血は捧げません。安息日のルールは「安息に入る」事に変りました。 ダビデの礼拝は新約時代の教会の礼拝であると使徒の働きで書かれています。また、恵みは「神の御声を直接聞く事により頼む」ものですが、律法は「仲介者を得て、既に決まったルールのリストにより頼む」のです。

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「預言と預言者3」クリス・バロトン

「預言と預言者3」クリス・バロトン

2コリ5:17、ルカ4:19、マラキ4:5、6  私達は「新しい契約:新約」の中に招かれました。古い契約は「古びて消え去った」のです。ですから、私達は「新約」の恵みの時代に生きる者です。私達は恵みにより救われて聖徒と変えられました。以前は「罪人」でしたが救われた後は「赦された罪人」ではなくキリストイエスにあって「全てが新しく変えられた聖徒」です。 新しい契約では憐れみを受けるに値しないものが、憐れみを受けます。それは神が御子イエスのカルバリの働き、罪を犯していないので「死ぬべきでは無い」神が死んで、古い契約を終わらせて、新しい契約を私達と結ばれたのです。 古い契約で神が決めた事は「罪と罪人を裁く」でしたが、新しい契約は「憐れみを受けるべきでない者、罪を犯したものも、恵みによって憐れみを受ける」のです。神は御子を「世を裁くため」でなく「世を救うため」に与え、神と全てが和解するように、私達を和解の奉仕につかせました。そして、「神の恵みの年を告げ知らせる」とイエスはルカ4:19で分かる様に、イザヤ61:3の途中まで読むことで、季節が変った事を宣言したのです。 新しい契約の中の預言者は、その働きも変ったのです。それは「父の心を子に向け、この心をその父に向ける」ことです。罪を示し裁きをもたらす事から、和解をもたらすために、人々の神からの計画や使命を見いだすのです。旧約時代の神のやり方は「罪と罪人を裁く、全滅する」でしたが、新約は「イエスの死で正義は達成された、憐れみが解放される」なのです。私達も激しい恵みにより、受けるべきでない者が神の国に入れられたのですから、他の人を裁く事を止めましょう。

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「ダイアモンドとそのありかた」ビル・ジョンソン

「ダイアモンドとそのありかた」ビル・ジョンソン

出エジプト31:1〜5、イザヤ60:1〜4、61:1〜4 ソロモンの人生を知恵と、社会の変革という事に対して語ってきましたが、シリーズ最後になります。神様が新しい啓示を下さることは、まるで層になっているように、神が既に啓示で教えて下さった事の上に新しい啓示を置かれます。その啓示をダイヤモンドと呼びましょう。新しい啓示が来たらその前の啓示はなくなるのではなく、積み重ねるのです。 聖書で最初に「主の霊で満たされた」人は職人であり、知恵と創造を用いてモーセの天幕を造り、イスラエルの民に益を与える為でした。ですから、主の霊で満たされることは、知恵を受ける事です。 箴言とは、「治める」という意味ですが、それは「いのちにあって治める」事です。主と繋がる事で信者がどうやって人生を祝福と繁栄と打ち破り、知恵をもって歩くかはあなたの為だけでなく周りの人々、共同体の他為です。契約の友情で繋がる人々の集まりを神様は建て上げています。信じる前に弟子達は互いに属して、所属していた。 送り出す事も、大事、しかし私達が社会の中に留まり、塩として、光の有る町として人々が「来る事ができる」場所を造る事も主が語っている事です。

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「預言と預言者1」クリス・バロトン

「預言と預言者1」クリス・バロトン

1コリント12:1〜11、エペソ4:7〜16  預言の賜物と5役者の預言者の事を今日は話します。1コリ12:1の原語は「御霊の賜物」ではなく、「霊の領域」「霊の世界」と書かれています。パウロはコリント人、ギリシャの神々を信じる世界観から信者になった人達に「唯一の神、霊の世界」事を教えていました。ここでは「同じ」という言葉が多く有りますが、それは「預言の神」「癒しの神」「異言の神」と誤解していた人々を助ける為です。正しい霊的な経験と間違った神学があったのです。唯一の神が全ての賜物を与えます。 御霊の賜物は「プレゼント」ですから、求めてもらった人が預言をするのです、預言ができる人は人格が成熟している証拠では全くなく、すべての御霊の賜物は「もらう」ものなので、成熟さの証し、結果ではありません。世界中で「霊の領域」に触れる事に飢え乾きがありますが、宗教は嫌われます。御霊の賜物の預言は「励まし、立て上げ、慰める」為であり、「皆の益」のためです。もしあなたが御霊の賜物を使っていても人々が励まされていないなら間違った油注ぎでしょう。 5役者の預言者が「キリストの賜物」であり、キリストが体「教会」に与えたものです。預言者の召しと賜物があっても、油注がれ、「任職」されるまでは、「5役者の預言者」ではないのです。教会は「5役者」を賜物、キリストからの贈りものとして感謝して受け取れる事が大切です。 預言の賜物ならば、私が行う事ですが、5役者の預言者は「私」であるので、それを止める事はできません。それは、女性に対して「今日は女である事を止めなさい」というようなものでしょう。 

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