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「答えは大事」ビル・ジョンソン

「答えは大事」ビル・ジョンソン

マタイ6章、マタイ11:12、9:19 マルコ9:28、29 私達は「答えられない祈り」を祈るために創造されたのではありません。それは、中身がないことです。しかし、自己中心と無知は祈りが答えられないことを容認してしまいます。 しかし、それは祈りの答えが遅れたりすることを非合法にするわけではないのです。私達皆が、まだ答えられていない祈り、打ち破りの必要な事柄があるでしょう、私もそうです。しかし、その中での大切なことは、その過程、プロセスを神様を責めない、そして自分にも自責の念や、恥をもたらす思いに同意しないことです。 マタイ6章の「弟子たちの祈り」があります、ここでの優先順位はなんでしょうか?天の父の御名があがめられ、天が地に来るようすることです。また、6:33では、「まず神の国とその義を第一に求めなさい、そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます」とあります。それは、神は日常の必要を満たすし、そのことを祈るのはよいけれども、まず、第一は神の国、それはキリストの統治ですが、あるように。そして、神の義とはキリストの御性質が私たちの人生を通して世に現れることです。しかし時に私達は、この優先順位を逆さまにして、最初の事柄を犠牲にして、その次の事柄を祈ってしまうのです。あなたが主の声を聞いていないと思ったら、これらの神が話そうと思っているトピックのことを話してみてください。 富を得る時には、良いリスクを取った投資をしますね、例えば50セントで株をかって、のちに100ドルの儲けをえる、でも、これらのことはリスクを分散することで良い結果をえるでしょう。 それと同じに私たちの祈りも、多くの人生の分野に分散されるべきです。何か一つの祈り、打ち破りにだけ集中して「これが聞かれたら私は神を信じる」ということは私は愚かだと思います。日々答えを受けることができるように祈り、私はそれらで「まだ打ち破りが来ていない事柄の祈り」に対しての励ましを受けることができます。 マルコ9:28、29では弟子達は悪霊を子供から追い出すことができなかった理由を弟子たちはイエスに聞き、イエスはそれに「祈りと断食」と言いました。打ち破りがない時に、自分たちは「これは神の時ではないからだ」という神学を作って、自分達を打ち破りがないこと、祈りが答えられなかった事の痛みや欲求不満から自分達を分離して守るべきではないのです。イエスはここ不信仰に対処していますが、信仰は「神の言葉を聞くことからきます」から祈りと断食によって自分の視野をもう一度定めるのです。

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「信仰対資格 」ビル・ジョンソン

「信仰対資格 」ビル・ジョンソン

ヤコブ1:2 信仰で歩いている時に、チェックされなければ、それは「自分には資格がある」と勘違いしています。その意味は「自分の祈りは答えられ、打ち破りを得た。それは聖書に書いていることをきっちりしているからだ」と思って全ての事が恵みであることを忘れてしまうのです。全ては恵みなのです。しかし、「私の能力や何かはそれが起こったことの理由」と思ってしまう性質が私たちのうちにはあるのです。神の御国を受けるには「心が貧しい霊」を持つことですが、それは自分を否定的に見て、何もないというのでは悪魔に同意しています。全てが恵みであることです。 リバイバルは私たちが何かしたから起こるのではありませんが、神が語った、言葉によって創造された流れに私たちが入って行ったので、それが起こったのです。私たちは神から離れては何もできませんが、同時に神も私たちを通して働かれるのです。 刈り込みは私たちが従順に主に従った時に、実った実をもっとよく実るためにすることですから、それは恵みです。刈り込みを受けることは罰ではありません。しつけされることは罰やはずかしめではなく、恵みです。 旧約聖書ではあなたは周りにある、汚れや邪悪 によって汚れるので、それらから分離していなければならなかった。しかし新しい契約、イエスが来てからはあなたの中の義のちからがあなたの触るものを聖なるものと影響を与えることに変わりました。 試練にあった時、その結果を先に計算して喜びましょう。足りないものがあるときには、神がそれを満たすことができ、「欠けたところのない者」とされることができるのです。祝福や増加によって私たちが殺されてしまわないために、主は私たちを試練をも用いて整えるのです。

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「暗い季節に立ち向かう時」クリス・バロトン

「暗い季節に立ち向かう時」クリス・バロトン

イザヤ35:1〜7 ネヘミヤ4:15〜21 「疲れた者を励ます」メッセージはいつ聞いても良い言葉です。しかし、主が私にこれは「今」の為、そして「体、共同体」としての必要があり、預言的に今がこの「疲れた者が多くいる」ので励ます事を解き放たれると信じています。 イザヤ35章で「荒野」や「砂漠」とありますが、これは例えなので、実際の場所はなく、私達の人生の中にある季節です。約束の地にはまだ、到達せず、しかしエジプトからは立ち去ってきている、その間の乾燥した、大変な、進めなくなっている時です。 「疲れた者を励ます」と言葉とネヘミヤ4:17節の「投げやりを堅く握って」という言葉は、全く同じ言葉です。ネヘミヤは城壁の回復を成し遂げますが、私達の人生の城壁も色々な事柄で破壊され、それを回復する働きはそれぞれがする事ですが、敵が妨げ、力を失う時に、「槍を堅く握って立つ」ということは「私はあなたの為に敵と戦う、敵からあなたを守る為に武器を持って立っています」とする事が励ましなのです。時に私達は「あなたは良くやっている」という事を励ましとして語ること以上の事が必要です。霊的な戦いを他の人の為にする事です。 悪魔に焦点をあて、まるで神が弱いような感想を持ってほしくないです、しかし同時に敵がいる事を認識する事をパウロやペテロはしっかりと語っています。時に私達は敵の攻撃を普通に対処しようとします、病院やカウンセリングを受ける事などで解決を見ようとしますが、霊的な戦い、敵のアタックのときもあります。 「弱った手を強め」ることは「力強くされる」ことでもあります。ヨシュアは「雄々しくあれ、強くあれ」と主から「命令」されました、それは「提案」ではありません。ヨシュアは荒野を恐れてはいませんでした、相続である約束の地を恐れていました。 恐れは正当化されていいものではなく、解放されるべきです。あなたが、もし恐れを受け入れて、恐れている事柄をしない範囲の中で生きているなら、あなたは既に恐れによって、神からの使命を 縮小しています、あなたは、キリストの内に既に隠されているのです。隠されていなければできない事ができるのです。すでにあなたがいきているのでなく、聖霊があなたの内に住んでいます。

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「誓約の歴史を作る」ビル・ジョンソン

「誓約の歴史を作る」ビル・ジョンソン

マタイ2:1〜12 私はこの季節だけクリスマスを祝うのが、残念だと思うのです。この事柄は一年にある一時だけ認識され、祝われるのではなく、私はいつも覚えたい事です ある祈りの人は「神様は祈りの答えとしてだけ、私達の人生に介入される」と言われました。もちろん神は何でもしたい事をされることはできます。このポイントは、祈り、人間が主に叫び求める事は主にドアを開くことです。キリストが現れた事でさえも、イスラエルの民が叫び、求めた事を忘れる事はできません。私があなたの家の大家だとしても、私は勝手にあなたに貸している家に入って好き勝手にする事はできません、ドアをノックして許可をもらわなければなりませんね。それと同じです。 「東方の賢者」は黄金、乳香、もつ薬をもって、ユダヤ人の王に会いに行きました。彼らは星をみて「この上もなく喜んだ」とありますが、この言葉の意味は「やり過ぎ、激しく、おかしく見える様に」という意味があります。この時点では賢者達はイエスを見ていませんが、それだけ喜んだのです。でも、その様な喜びを「賢者」は現しました。香油を注いで、イエスの足を洗った女性のようです。教会にその様な「やり過ぎに見える様な」礼拝の喜びの表現が戻る時です。 そして彼らは赤ちゃんのイエスである王様です。ソロモン王の所に多くの人が偉大な知恵、解決を受けるために会いにきましたが、彼らはイエス赤ちゃんの王様が彼らに与えられる「もの」ではなく、「イエス王」に会いにきて、礼拝しました。 イエスは私達の為に全てを完成させました、ですから私達は「まったく何もしない」という教えの流れがありますが、私は思うのは、それが故に礼拝の時に、何も持たずに、与えずに出てしまうと、関係を作る事が体験できない事です。神は契約、誓約の神です。 私は何度も、自分の人生を神の前の祭壇にのせ、捧げて、打ち破りや人生の危機、そしてもっと主に近くなる事を願ってきました。捧げる事をしなければ、契約の神、誓約の神との歴史、私だけが作る事ができる主との関係を育てる事はできません。

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「普通でない勝利」ビル・ジョンソン

「普通でない勝利」ビル・ジョンソン

士師記20:18〜28  士師記20章で、イスラエルの12部族の一つのベニヤミン族が女性を性的暴行を加えたあげく殺人し、それを悔い改めない事態が起こった時にその他の11部族は集まり、ベニヤミン族が犯した様な罪を国から消し去ろうとし、ベテルにのぼり、主に誰が最初に戦いに出るのか聞きました。主は「ユダが最初」といいました。ユダは賛美という意味で、私達の「霊の戦い」をここから学びますが、私達は賛美によって戦い、前進します。賛美は主に焦点を当てますが、私達の霊的戦いは敵、悪魔に対して焦点を当てる物ではないのです。 イスラエルは戦いに出ますが、1日目は2万2千人、2日目には1万8千人を失ってしまいました。しかし、彼らはもう一度神の前にでて、「私達はまた出て行って戦いましょうか」と聞いた時、主は「攻め上れ、私は明日、彼らをあなた方の手に渡す」と言われました。私達は勝利を自分達の状況の変化、改善によってはかりますが、主が異なった視野を持っている事を知っていますか?主はイスラエルの民が2日、敗北して、4万人失った後にも、「主の声に従う」事を願ったイスラエル人達を見て「勝利」を見られました。あなたは主に従って何かをして結果が期待通りに全くならなかった経験がありますか?あなたが敗北した後祈った時に、あなたは勝利しました。 神は私達に与え、私達が祝福を受ける事によって周りを祝福する為に、私達をその祝福、神の栄光臨在を管理する人格、許容量を建て上げる「過程」を通しています。憐れみの故に、私達が主の臨在、栄光によって破壊されないように、訓練され、育てるのです。祈りの答えが遅いと思っているなら、その時間はボーナスを貯めているのです。その為に「すべての事を用いて益とされる」の御言葉がローマ書にあるのです。

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「目的のある繁栄:創造する為に造られた」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:創造する為に造られた」ビル・ジョンソン

創世記1:28、詩篇67篇、マタイ28:18  神は私達を問題を解決する為に、混乱や暗闇のまっただ中に置かれます。創世記1:28では「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ」とありますから、「従える事」はそこに敵の存在や、混乱がある事を意味しています。 主は最初にエデンの園を造り、アダムとエバを通して、人類の増加によって、園が地上全体に広がって、神の御国、神を自発的に愛して礼拝する者が地を満たす事によって栄光で地を満たし、悪魔のいる所が亡くなる様にと計画されました。しかし、アダムが神に背いて、悪魔に従った時に「鍵」権威を失ったのです、ですから、後にイエスがその鍵を死とよみがえりを成し遂げるまでは人に対して神は「地を従えよ」とは命じませんでした。ノアとノアの子孫達には生めよ、増えよ地を満たせ、祝福されましたが、地を従えよと命じなかったのはそのためでした。 しかしイエスはマタイ28:18で「わたしには天においても、地においても一切の権威が与えられています」と言ってから「あなたがたは出て行って〜」と働きを与え、送り出しました。これはイエスが悪魔から鍵を取り返して、信者に与えた事です。 創造的に問題解決する事は信者の普通の事ですが、敵は邪魔するために焦り、恐れ、ねたみなどを持ってきて、信者が集中できない様、気力が奪われる様に仕組んできます。経済的に「足りない」と思い続ける事もそうです。詩篇67篇のように、神の祝福が、信者の上にあり、その祝福を周りの未信者、国々が見る事で、神の性質が見えるのです。私達の説教ではなく、私達の人生が周りの人が読む事のできる開かれた本なのです。それで、人々は天の父が愛のある、恵みあふれる神であると知る事ができます。 教育、音楽、政治、などの多くの分野で事に神のミステリーが解き明かされる事で、新しい方法、問題解決が来る事を信じます。

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「目的のある繁栄:任された祝福」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:任された祝福」ビル・ジョンソン

詩篇67:主は「聖と世俗」、「自然と超自然」にひかれてしまった、分ける為の線を消していると思います。 主はイスラエルの民を荒野で訓練しました、それは奇跡によって彼らが毎日生かされ、主の御手によっての「超自然、奇跡」による祝福を経験しそれが、主からのものであると認識する訓練であり、その後に約束の地に入って、彼らがマナではなく、自分達が蒔いた穀物、「自然の働き」に主の御手がおかれ豊かな繁栄があった時にそれが主の祝福であるとも分かるためでした。 主の召しを受けた時に、それは「自然・普通」なものが「超自然」なものになります。「自然 普通」にあるものを使っての、働きや仕事であったとしてもです。歯科医、労働者、母親、どんな働きでもそれは主の召しを受け取った時に、その働きを「主への捧げもの」としてする時に、それは主が見える様に現れて下さる臨在を引き寄せる、主にとって魅力的な捧げものになるのです。使徒パウロがテントを造った時に使ったタオル、エプロンが病を癒し、悪霊を追い出した事から神が私達に教えたのは「自然、普通とされる仕事」を主の為にする時に、聖なる働きとなる事であり、そこには力がある。 詩篇67篇は 主の良さ、祝福を主は私を通して、国々、全ての人々に見える様にして、その事でリバイバルがある事を見る事ができます。神の祝福は、ある特定な人々だけでなく、すべての人に注がれるものであり、それが神の願いです。その為にも私達は祝福の神学の上にしっかりと立つ必要があります。1、2節のように、私達は主の道が国々で知られる、良さが知られる為に祝福を求め、それを良く取り扱う事、それによって神の道が国々に知られ、リバイバルが起こる事を任せられているのです。

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「目的のある繁栄:ちゃんとやろう」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:ちゃんとやろう」ビル・ジョンソン

2コリント9:7〜11  「貧しさ」というのは物が無いとか、現金がないということではなく、心の中の状態。敵は、真実をねじ曲げる、極端にします。たとえば、あなたが物質的に豊かで沢山のお金があれば、霊的に成熟している、またあなたが人生で貧しければ、霊的に成熟しているというふうに、両極端にずらしていく。貧しさは神の物ではなく、反対にイエスの贖いによって「罪、病、貧しさ」の力は壊されたのです。 どれくらいのお金を手にする事が「多すぎる」のでしょうか?それはあなたの信頼が神からお金に移ってしまう時です。神は具体的にどれくらいの経済を私達が持つかに対してはあまり興味がないと思うのです。関心があるのはどこに信頼するかです。 蒔く種と食べるパンー豊かに与える事と義の実の繋がりをもう一度見て下さい。豊かに与えるものは、義の実、永遠の領域に影響を与えるのです。種は 将来の為に蒔くもの、パンは自分の個人的な楽しみの為であり、種を食べてしまっては、来年の収穫はありませんが、パンを植えても収穫もなく、パンは無駄になってしまいます。 イエス様の人生の周りの「豊な人々」によって主は「豊かさ」を通して助けを受けられました。ですから豊かさは不品行ではないのです。しかし、私の弟子訓練の背景によって牧師である私はビジネスや投資、売ったり買ったりには絶対に関わらず、主の超自然的な満たしにいつも信頼すると思っていました、でも考えは変えられました。種は「投資」の為に使い、その収穫から他の人のため、御国のために使うための物でもあると分かりました。ミナとタラントの例えで叱られたのは預かったお金を増やさなかった僕です。主の心は増加、前進です。

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「目的のある繁栄:まことの豊かさ2」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:まことの豊かさ2」ビル・ジョンソン

マラキ3:8〜11、エペソ4:28、ルカ16:10  私の心にあり、燃えている事は皆さんが神様の計画、使命の中を、満ち満ちて行く事です。その為に私は動かされています。教会やミニストリーが大きくなる事でなく、大きな人を育てる事です。聖書の中には「繁栄」の原則があります、これを無視する事はできません。たとえ繁栄の教えを誤用している人々があるとしてもです。繁栄には目的があります、それは「神の御国」が拡大することです。 神からの祝福は内容に関わらず、全ては「金の子牛」を造る可能性はあります。私達が神の御国、神の価値、原則から目をそらしてしまう時です。 神様の原則の一つは「見える領域」の事柄で大胆に従順する事で、「目に見えない領域」に影響を与えること。それはマラキ3章にあるように十分の一献金を捧げる事で、霊的な祝福、私達が心から願っている事を受けるという事です。決してお金で霊的な祝福を買うのではありませんが、成熟する時には、代価を払う事が伴います。十分の一献金は地方教会、あなたの養われている教会にするとあらかじめ定められています、献金は自由にあなたの重荷のある所に捧げる事ができます。自分が食べたレストランで会計をしないで、違うレストランに支払いをする事がありえないように、十分の一献金の捧げ先は主によって定められているので、自分の都合で変える事はできません。 ルカ16:10から見る事ができるのは不正な富(この世の経済)をどのように取り扱うのかによってどれくらい真の富が任されるのかをはかる事ができるという事です。 箴言は教えています、富を追い求めてはならない、知恵を求めよ。結果として富をもうける。しかし、主により与えられた富、満たしを求めてしまうなら、今度は満たしと知恵も失ってしまうことです。これは私達が結果的に守られる為のテストになります。

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「目的のある繁栄:まことの豊かさ 」ビル・ジョンソン

「目的のある繁栄:まことの豊かさ 」ビル・ジョンソン

目的のある繁栄シリーズの2回目です。 マラキ3:8〜11、ルカ16:17、マタイ22:17、創世記14:18〜20 マラキ3:8〜11 十分の1を捧げるということは律法から来たと思っている方もいますが、そうではなくこれはアブラハムから始まりました。創世記14章にありますが、アブラハムはメルキセデクにすべての収入の十分の一を捧げました。それは神を敬う為でした。モーセが400年後に律法に書き入れ、批准されましたが、これは信仰の父であるアブラハムによって始められました。十分の一を捧げる事をリックジョイナーが神の造った地球に住み、空気を吸っているからこれは家賃のようだといっていますが、私はそのアプローチを好みます。 マタイ22でイエスは「神の物は神に返しなさい」といったのは、私達の所有物の中に私達の物でないものがあるので、それは「返す」または「支払う」ものであり、「与える」事はできないという意味です。マラキ3章で分かる様に十分の一を与えない事で「いなご」が入ってくる権利を敵に与えてしまい、それは神がのろうのではなく神の言葉に不従順になる事で、神の守り、祝福から自分で出て行く事、その結果は神の御心ではないのです。ですから、十分の一献金をする人も、しない人も、それはその人の物にはならないのです。主が私達を訓練する時に、使わない物を持たせて、使わない事で、管理する事を訓練されます。自分の物でない物をよく取り扱えるなら、自分のものになる物を良く取り扱える事とされるのです。 他の聖書箇所では「わたしを試してみよ」という神の言葉を見つける事はありません。ここだけです。開いた天が経済のことだけでなく、それは主の臨在そのものであり、経済、健康などの祝福が来るのです。マラキは自然界の従順(十分の一献金)を霊的な打ち破りに結びつけています。主は私達を召し、それぞれの置かれた所で、文化や価値観に影響を与え、歴史の流れを作る為にもちいられますが、経済をどのように取り扱うのかを私達が学ばなければ、それはする事ができません。繁栄とは、神の御国とその義を追い求めた時の副産物です。そして主は悲しみをもたらしません。しかし、もし繁栄を追い求めた結果が繁栄なら、そこには犠牲を伴います。私達の土台はイエスの主権です、それ以外の人道主義、宗教のシステムを混ぜて建てるものならば、耐え忍ぶ事ができず、違う場所や文化に適応する事もできないでしょう。

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