「家に帰って来る」ネイサン・エドワードソン
ルカ書15:11の所から私達は良く「放蕩息子」として親しんでいるたとえ話がありますが、ここでイエスは宗教家達を驚かせる事を言っています、それは「走って息子を迎えにいく父」の姿です。当時は反抗し、父母に不従順な息子は町の門に連れていって、石打にする事が文化でした。(申命記21:18~)ですから、この物語でイエスは何かを教えています。父は息子がまだ遠くにいるのにも関わらず、走って行き、抱きしめ、口づけをして、最上の上着を着せ、(父自身の上着)、指輪をはめ、靴をはかせて村人みんなの見ている前で奴隷にして下さいと思って帰って来た、ぼろぼろの息子を「死んでいたのが生き返った、失ったものが見つかった息子」として回復しました。隠れた裏庭ではなく、みんなの見ている前で行われました。 教会はどうでしょうか?息子達、娘達、今の若者達の世代を私達は「神様、彼らを家に連れて帰って来てください」と祈りますが、その時に同時に「彼らの霊的な父母を建て上げて下さい、召し出して下さい」と祈らなければ、無責任でしょう。息子達娘達が家に帰って来た時にルカ15章の父の様に、遠くから見つけ、走って行き、抱きしめ、口づけをし、回復する、そして共に彼らと家に向かって歩く霊的な父や母達が必要なのです。現在の若者は家族や家庭の中で育てられずに、愛情や注目の為になんでもする様になっています、そして孤独によって苛まれています。 教会の中で「家族」といっても、「家に帰ってくる」といっても彼らには理解できないし、私達が日曜日の礼拝を神の家族、家としてきたの同じ様には理解しないし、必要にしないでしょう。教会はあまりにも多く「兄」達によって運営されています。ですから、父や母がいず、教会の中に孤児のように建物のなかに、人々の中にただいる若者達が沢山います。霊的な父、霊的な母が必要なのです。彼らが神の使命のなかに歩いていく事を一緒に歩いていく者達が必要です。教会は新しい道を彼らの為に創造する事が必要だと思います。私達のヴィジョンは彼らが神に出会い、神の使命の中に入る事であってそれは彼らが日曜日の礼拝の集会に参加する事以上の物です。日曜日の礼拝の集会などに彼らが参加しなくても私達は受け入れる事が必要なのです。
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