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「制限する箱」エリック・ジョンソン

「制限する箱」エリック・ジョンソン

マルコ4章、コロサイ1:19、26、27 「奉仕、またミニストリー」と言う言葉の意味を広げたいのです。私達がもっているその言葉に対する定義やイメージによって神様に制限を付けて箱に入れてしまっているならば、それを取り除きましょう。 まず、「奉仕ー王に仕える事」が私達の最大の優先順位で、責任です。しかしこの「奉仕」と言う言葉に私、エリックジョンソンが思っている定義は「私が誰であるかが真実に現される事」であって、それは私が何をするかではなく、自分が誰であるかです。 「あなた方の中にいるキリスト、栄光の望み」コロサイ1:27は私が深く語られる箇所ですが、神はあなたより、あなた自身を信頼しています、なぜなら神はあなたがたの内に神ご自身を全て入れた御子を置いたのですから。高価なものを置く事は信頼しているのです。 私達はみな、望みや夢があり、それにより人生の召しや油注ぎを「制限する」事があるのですが、それは止めましょう。目の前にある機会、開かれたドアをみて「主よ、どれを私が入るべきですが?」とまようのではなく、「自分の期待はずれ、または逆の事ですが、私の目の前にあるので、これを熱心におこないます」と言って、それをするなら、そこにあなたを通して流れる神の御国に驚くでしょう。あなたがキリストに留まっているなら、仕事でも、人間関係でも、危機でも災難でも、そこにあなたが繋がる時、御国が解き放たれます。 マルコ4章の「種まく人」のたとえからですが、「種を蒔く人」は種に関しての責任があり、土に関しての責任は与えられていないのです。神が「種」を蒔きます、そしてあなたは「良い土を造る」事の責任が与えられています。それはあなたのできる事です。神は種を人類に蒔きます。種が来たなら、受け取りしっかりと走って下さい。 自分の油注ぎ、召しを制限する事、自分自身を制限する事、それは同時に神ご自身を制限してしまうことです。

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「栄光を見つめる」ビル・ジョンソン

「栄光を見つめる」ビル・ジョンソン

2コリント3:18  「栄光」の中に生きる事は、神様が全ての人類に最初に与えた使命では無いでしょうか? 「罪により栄光には足りないものとされ」とありますから、反対に考えたらその前は栄光、現されたイエスの臨在の中で、その臨在をもって生きる事があったのでしょう。 2コリントの3章はとても意味のある場所だと思いますが、パウロはいくつかの事を比較して私達「新しい契約の信者」が受けるべき物を見せています。それは「消えていく栄光」ではなく「増加する栄光」です。人が主に向くなら覆いが取られるのは神の憐れみで、主が未熟に啓示を人に与えて、準備ができていない人に責任を与えられないのです。しかし、従う準備のできている人に主は啓示されます。 私達が「主を見る」ならそれによって変革されるので、敵は「内省的」「恐れ」「焦り」などで私達の目を神の栄光から反らせようとします。「静まる事」は大切です、忙しさは栄光の敵であり、それがクリスチャンの働きであってもです。行いによっては得られない神の栄光があります。ルツヘフリンさんはいいました。「礼拝の霊が来るまで、賛美して、栄光が来るまで礼拝するのです」。

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「栄光の領域に住む」ビル・ジョンソン

「栄光の領域に住む」ビル・ジョンソン

ルカ9:27〜31、ヨハネ3;13 黙示録4:1で主が「ここにあがって来なさい」と言われた事をヨハネが書き記しているけれどもこれは私達に常に開かれている招待状だと感じます。天に上げられて、栄光の中で、主と出会う事を体験することは私達クリスチャンの普通の生活です。 イエスは「人の子」として地上に体を持って住みながら、天の栄光に上げら神と出会っていた。啓示は「覆いを取る」という意味ですが、主が私達に啓示を下さった時に、それはまだ、油注ぎを受け取った訳ではなく、その見える様になった真理により私達は油注ぎを求めて、その啓示された真理を行う事、イエスを確かに明らかにする責任と特権があるのです。特に西洋の教会では定義や教えを受け取って満足する傾向があり、しかし本来は油注ぎを求めて御国を現していく事を実践するべきなのです。癒しを信じていても、実践できる教会が少ないので多くのキリストの体は癒しを信じなくなったのです。 「変貌山」での出来事は、イエスの顔が「他の人」になり、服が「稲光のように輝いた」とあります。それは地上の人が「栄光の領域」に住む事の影響であり、私達もこのような栄光を教会としてますます経験するのです。「栄光」によって最大限に私達の考え、視野、感じ方が変化させられ、その事で回りに影響を与える事です。 聖霊は「私達をイエスの様にする」事を一つの目的にしていますが、その為にも聖霊はイエスが十字架で死なれ、甦り、上げられて、栄光をお受けになるまで人に与えられなかったのです。そして、イエスが栄光を受けられた後に注がれた聖霊は私達を「上げられたイエス」黙示録1章でヨハネが記しているイエスの様に変えているのです。十字架に向かっているイエスではなく、上げられたイエスです。 ある人は「栄光」を追い求める事が、それほど大事ではない事柄を中心的な事柄にしてしまうと心配していますが、私が思う事は、どれだけ「栄光」が大事であるかを私達が発見しているかということです。

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「希望という神からのXファクター」クリス・バロトン

「希望という神からのXファクター」クリス・バロトン

ベブル11:11〜13、詩篇42:5、箴言13:13 希望は「感じる事」ができ、信仰は「みる事」ができます。そして愛は「絶える事がない」のです。 希望とは「神が何か良い事を私にする、それはいつとかどのようにかは判らないけど、それは私にくる」と感じる事です。それによって信仰で「見る」事ができます。また、信仰は「見る」ので盲目の信仰は本来はあり得ない物です。信仰は状況を理解して、それが逆境でも神を信じるものです。 恐れとは、間違った神に信仰を持つ事、それは「悪い事が自分にやって来る」と信じていることです。 ダビデは詩篇42:5で「我が魂よ、なぜおまえは絶望しているのか」と自分の魂に語り、人間が3つの部分からできている事を適切に活用しています。私達が「御霊によって導かれる」時に、私の霊は好調でも、魂が落胆している時があります。しかし、私達が「神に希望を置く事」を自分の魂に語る事ができます。 箴言13;13から、間違った事に、希望を置く、また希望が無い事で「心が病む」事が判りました。「願った事がかなわないから」心が病むのではなく、「希望がなくなる」から心が病むのです、だから希望を保つため、「告白」すること、また「覚える事」は非常に大切です。

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「御国は一方通行だけ 」エリック・ジョンソン

「御国は一方通行だけ 」エリック・ジョンソン

イザヤ9章7節 2コリント3章3節、16〜18節 2つの事をイザヤ書からはなします。「永遠」と言う事です。神の御国は「主権が増し加わり、その平和が限りなく」とあります。私達のいる世界は「時間、時」があります。また生まれた物は死があるように、「終わり」があります。 しかし、「神の御国」は永遠であり、終わりがありません。「熱心がこれを成し遂げる」主は「ねたむ」神です(これはネガティブな意味でなく、「情熱があり、熱心さがある」意味で使いますが。)私達が自分のアイデンティティーが「罪人」の考え方であるならば、主の熱心さは信じる事が難しいでしょうしかし、そうではなく、主は私達に「主ご自身が熱心さを持って、働かれ、成し遂げる」事を強調しています。それが「神の御国です」。 「神の御国」は栄光から、栄光に変えられるような、上昇、成長の一方通行で、その他の選択はないのです。もし、あなたが人生全てを主に捧ずに、主を冒涜するような事をしているなら別ですが、私は「主に全人生を捧げて従っている」人々に話していると信じています。人生の最悪の季節だと「感じても」あなたは「上昇」しています、なぜなら「栄光から、栄光へ」しか存在しないからです。状況に文句を言わずに、「栄光からえいこうへの一方通行の考え方」をもって、状況を受け入れて、変化を見ていきましょう。御国に入り「神の事柄、ご人格」が情報としてあなたにあっても、実際にそれらを「知る、体験する、慣れ親しむ」事なしにあなたは、それを持って働く、動かす油注ぎはないでしょう、しかし、時間をかけ、練習し、成長する事です。最初からできる人はいません。 「できない」事を拒否することによって私は「平和をもつ」事ができるまで訓練を続け、「平和」を得ました。ある人は御国の中にいて、見ているけど「持っていない」でしょう、ですから「できる様になりたくて試している事」を忍耐を持って続けてください。神の王国をどれくらい持つ事ができるのは、私達の選択にもよるのです。 主は、私が参加しなくても御国の働きをもちろんされます、誰か他の人を用いるのです。そして、「御国」は捧げる事なしに持てる物ではないのです。全てを売って、買うのです。

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「聖所の中で生きる」ビル・ジョンソン

「聖所の中で生きる」ビル・ジョンソン

詩篇73篇  宗教の霊は、物事を極端に変えてしまう働きをします、その事から「繁栄」の話しをします。「貧困/持っていない」事が霊性が高い訳ではないです、貧しさは何の助けにもなりません。しかし、中世の暗黒時代にそのような考えができてしまいました。同時に「経済を多く持っている」事が霊性が高い訳でもありません。「お金」は敵が与える事もできるのです。 神が探しているのは、「神を愛しているので、世を愛さずにいる事ができ、その事によって「神の御国を一番に求め、世の人々」に仕ができる人達です。 詩篇73篇は「アサフ」が書きましたが、彼はダビデの世、そしてソロモンの世に移行した時に神の神殿でつかえる者達、彼らを司るリーダーであり、神の栄光の臨在が現実に現れる場所で働き時間を過ごした人でした。 73篇を書いた時、アサフは自分が正しい事をしているのに、悪人達が祝福されているのを見て怒っていました、たしかに主の祭司達は偶像礼拝をし、自分の王国を神の好意だとして建て上げていました。私達も同じような経験があるでしょう。祝福を求めるのは自然な事であり、それを求めないのは愚かさの影響を受けていると思います。 15節で「心にある怒りを口にして話すなら、私が仕えている神の子達を裏切ってしまう」といっています、これはこれは、励ましを語ることの原則が否定的な方に作用しているからです。そして17節では「神の聖所に入った、ついに〜悟った」とありますが、これは「臨在の中、自分のなかの聖霊の臨在だけでなく聖さのなか、礼拝の中で 現れる神の触れる様な栄光、臨在」の なかで「悟った」という事です。目が正しく開かれました。臨在の中だけが、物事を正しく見る事ができる場所であり、臨在の外は「欺かれる、ねじ曲げられる」事が実在するのです。

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「2013年 」エリック・ジョンソン

「2013年 」エリック・ジョンソン

イザヤ61章 イザヤ61章が私達の2013年にますます「現れ」てくるように祈り、宣言します。聖書を読む事は素晴らしいです、そして「黙読」とは全く違った力が「声に出して、宣言する」事にある事が判っていると思います。 2013年の始めに、分かち合いたい事が5つありますが、それらは2013年に必要な事だと思います。 ・成長をあまり短時間(毎日、毎週、毎月)から測ろうとしない事。 ・「起こっていない事」に焦点を当てない事。 ・好意や機会が与えられる時に、そこに神が関わっているのか、関わっていないのか。 ・神の御国は「前進」という一方通行です。それは「栄光から栄光へ」であって、もしあなたがイエスを人生の主としてあなたの人生を全く捧げているならば、栄光から栄光へでしかないのです。 新しいレベルの神の事柄の為、「新しいスイング」タイガーウッズはゴルフのスイングを調子のいい時に変える事を表明した時に多くの人は批判しました。それは、「良い成績を出している」から変える必要は無いとおもう。しかし彼は「変える事で、もっと良くなる」と変化をしました。同じ様に神様が私達に「もっと良い成績、結果」を出すために新しいスイング/方法を あなたが良いとおもうなら、それを与えると言われています。 私の評判以上に、「実際の私、私の成熟度」が大きい事を求めていく。木が高い時にはそれに見合った根が育っていないと簡単に嵐で倒れてしまう。私達が大きな好意。機会があるのでますます「中身が評判より大きい」事を求めていきます。 ・神様を信頼する事。 健康にされるために信じて、求めている人々今年はもって、信仰と信頼を持ってあるく時になります。健康であっても、周りに影響を与える為により多くの信頼をしていく時になります。周りに、火の気が無い所 霊的、感情的、環境的に置かれても、あなたはそこで神の炎を起こす事ができますか?それをしましょう。よく食べて、よく眠る事の選択ーよく食べる事(とは、不正によって肥える事)でなく良く眠れる(正しい事をするので心に責めがない)事の選択、よく自分を管理しましょう。信頼する事。

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「飢饉の時に」ビル・ジョンソン

「飢饉の時に」ビル・ジョンソン

あかしとメッセージ トレーシ  4人の宣教師達は「なくすならば、保ち、受ける事ができる」事を実践し、一人の魂の価値をしっていました。また、キリストの十字架の光がそれぞれの人生の中の「世の富」を小さくし、遠い所に出て行って偉大な働きをしました。イエスは最初の宣教師です。天の栄光、美しさ、全てを捨て、小さな赤ちゃんとして来られました。しかし、手ぶらで来たのではなく、彼のうちに世界の宝、全て必要な道具は入っていました。 創世記26:1〜13 、ネヘミヤ5章、使徒の働き11:27〜30 今日は「ききんの時にどうするのか」という話しをします。2012年は、ある人には最上の年、ある人には飢饉のような状況だったでしょう。私達が「危機」を通るのは、人生をこの堕落した地上で過ごす時には、逃げる事はできないでしょう。それは、「人生」の一部ですが、その時に私達がどのような選択ができるでしょうか? 創世記26章、イサクは飢饉がある場所に導かれたが「その土地に種をまき、その年に100倍の収穫を見た」とあります、数倍でもすごいのに、100倍の収穫です。伝道者の書にあるのは、「天候を眺める人は決して種をまかない」とあります。外的要因に目を向けるなら、種くことをしないでしょう。 ネヘミヤはききんの中で「街」の再建をしました。教会の建物や、自分の邸宅ではなく、街を再建しました。 使徒の働きではアンテオケの人々は、自分達もききんがあったけれども、自分たちに福音を送ってくれた。ユダの人々に支援をした。ユダ地方がききんではなく、アンテオケもユダも両方がききんであった。「(ユダでききんがあるから(自分たちの所にも)ききんがあるが献金しよう」ということになった。 わたしはききん、人生の難しさを見る時に、そこに神の働くチャンスをみます。イエスが弟子達と船に乗っていて、嵐になり、船が沈みそうになった時、イエスが弟子に起こされ「だまれ、しずまれ」といって嵐を静めた後に「あなたの信仰はどこにあるのか」と言いました。それはイエスが弟子達が嵐を静める事を期待していたからだと思います。イエスは自分がした事を弟子達がする為に一緒にいて、訓練しました。私も、皆さんが行って、行う為に訓練しています。

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「あなたの中にあるクリスマス」ビル・ジョンソン

「あなたの中にあるクリスマス」ビル・ジョンソン

ルカ2章1〜7節 、コロサイ1章26、27節 「イエスがなぜ生まれたのか」と言う事を話したいと思います。イエスが生まれて来るまでは、人々は宮に行って神を礼拝し、また裁かれない様に願う事をしてきました、長い間です。しかし、イエスが生まれた事は「究極的な宮」の為の「究極的ないけにえ」となるためです。  あなたがイエスを信じて、イエスを主とした時にあなたが「究極的な宮」となりました。あなたのうちに「見えない神の本質」が満ち満ちている、御子イエスが来られたのです。パウロはこの奥義を啓示された故に、あれだけの多くの試練を通り続けることができたのでしょう。 また、私達が「聖徒」としてのアイデンティティーを持つ事をコロサイ1章から見つけます。「聖徒」ならは 私は祝福を受け、今を生きる事のできる価値観があるでしょう。しかし「罪人」としてのアイデンティティーは 私が今日受ける事ができる祝福は無いし、私が祝福を受ける為にはその為に多くの事を達成しなかればならないとと思ってしまうのです。 「希望の栄光」があなたの内にあるので、あなたが問題に気がつくのです、見てしまうのです。全ての問題に関しての「解決なるイエスキリスト」があなたの内におられるからです。でも、私達の傾向は問題に気がつき、文句を言って、誰かがこの問題の為に何かしてくれなればと語り合うのです。私達がその問題に対して、顔を背けず、問題である事柄に踏み込んでいく事がなければ、栄光の希望イエスがした様に解決を解き放つ事はできないでしょう。 もちろん、最初は何をするか皆わからないでしょう、しかし踏み出して解決の為に動き出すならイエスが「私の去った後に、困難があるけど、聖霊があなたに何を言うのかを教える」といったように聖霊が導きます。ですから、踏み出して、問題に目を向け、イエスの解決を解き放ちましょう。

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「神からの多くの好意」ビル・ジョンソン

「神からの多くの好意」ビル・ジョンソン

ルカ書1:28、1歴代誌22:8.9 「神と人からの好意のなかにイエスは成長した」と聖書でみますが、神の子、決して罪を犯さない。イエスが「好意」が増し加えられる事を経験した、またそれを必要であったならば、自分にはどれだけの「好意」が必要なのかと感じます。私は神と人の好意が増加する事が必要です。「好意」とは神との関係によって神がそれぞれに与えますが、神はえこひいきの神ではないので全ての人を同じだけ愛していますが、「好意」はそれぞれ異なる量を与えます。 好意は「神からあなたへの励まし、愛情表現」ですが、それが私達のアイデンティティーではないのです。また、好意は「神があなたを用いあなたの周りの人々を祝福するため」にあたえられます。適切に好意を用いるなら、増加します。 神があなたに好意を与え、周りの人が神を自由に知り、愛する事、またあなたが彼らの人生の神からの計画を解き放っていくためのものです。仕えていくためです。 「多くの好意」は「多くの妨げ」をも、もたらします。ルカ1:28で 天使がマリヤに「あなたは多くの好意をうけました」と言われました。しかし、それでマリヤの婚約者との関係はほぼ破壊されましたが、神が夢でヨセフに語ったので、結婚しました、しかし、マリヤとヨセフの間には婚外子であるイエスがいる状況から始まったおかしな家族でした。 「好意」を受け取る事を否定することはありませんが、受け取って当たり前でも全くありません、好意は「恵み」であって受け取るのに値しない者がうけとることです。「好意」は関係に基づいています。奇跡やしるしを主の御名によって行った者達が「私はお前達をしらない」と言われる箇所が聖書にあります。私たちが神をしること以上に大切なもの、一つだけあります。それは主があなたや私を知る事です。私達が意図的に良い所、悪い所を全て主に明け渡し、憐れみの神に癒して頂く事です。 主と個人的な親密さがない人が奇跡や癒しをするのならは、親しい関係のある私達が奇跡やしるしをしないという言い訳はできないのです。

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