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「神を深く愛する町」ビル・ジョンソン

「神を深く愛する町」ビル・ジョンソン

ヘブル11:11,16; 13:14-16 「要塞」とはなんでしょうか?城壁のように町を守る物で、聖書の時代には町は城壁に囲まれ、城壁が高く厚い程安全でした。私達が「強い要塞」と言う言葉を霊的戦い的要素の言葉として使いますが、その言葉の意味を「人が神以上に信頼するもの」だと信じています。それによって「聖書の真理」がねじ曲げられ、間違った世界観、価値観などが育ってしまいます。箴言では「知恵のある人は悪人の町の城壁を測り、彼らの信頼する物を打ち壊す」とありますが、それが要塞です。それを知る知恵を求めましょう。 ある祈り会の時に神は私に預言的に語られました。「神は街全体が神に所属する町を探し求めている」をと言う事です。そのような町によって広域地域や国に影響を与える事ができます。使徒の働きの2章で、ペンテコステが起こり、聖霊に人々が満たされ、共同体ができて、その中には「足りない者はない」状況でした。聖霊の栄光の臨在で満たされた場所で、人々の傷、葛藤、衝突も癒されたのです。 ヘブル11章ではアブラハムを見ますが、彼は「堅い土台の上に建てられた都を待ち望んだ」とあります。信仰によって完全に安全で健康な町を見ていました。信仰は「見る」のです。その町で人々が成長し、癒され、繁栄する事ができるような町。 私達が地上で今、待っている物は「永遠」ではなく、今の物ですが、求めているのは「後に来る都」です。神が探している町、求めている「全てが神に属する町」を自分達の町にもたらす為には実際的に何をすれば良いのでしょうか。ヘブル13章14〜16節にある様に、賛美と善を行う事、分け与える事(人生を互いに与えて受けるような交わりを意味していますが)「いけにえ」のレベルになるまで行う事です。私達が犠牲を払う事です。全て、いけにえは犠牲を払う事が必要です。 町とは「共同体/コミュニティー」です。個人の家族、ビジネス、ミニストリーの繁栄も良いし、必要です。あなたは神に信頼する事が、実際的であって素晴らしい事であると実践して人々に見せる事ができるのです。しかし、町や市や国の事を考えて下さい。祈りの言葉としてあなた方の中に種としてこれを植えてください。神は「全てが神に所属する町」を通して大きなドミノだおしのような影響を国に与える事を願っています。

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「政治的な状況を変化させる」ビル・ジョンソン

「政治的な状況を変化させる」ビル・ジョンソン

詩篇112篇 箴言13章23節 イザヤ書58章10節 箴言11章 アメリカでは選挙があり、色々個人的に深く心配していますが、今この時に実践するべきな具体的な教えを詩篇122篇から話します。「繁栄と富がある時にも彼の義は永遠に堅く立つ」とありますが、今まで教会はこの部分は未熟であったとおもいます。112篇では義人に戦いや反対勢力が迫ってくる時に、どのようにするなら義人が勝利するのかと書かれていますが。「彼は貧しい人々に惜しむ事無く与えた」とあり、それは122節の中で唯一「実践すべき方法」が戦略的に書かれているのです。 「直ぐな人の為に光を闇の中に輝かせる」のためには「暗闇」にいる事が必要です。ベテル教会の召しは「システム(この世、暗闇」に出て行って、仕える者になることで神の国をもたらす事です。 「その人(義人)は悪い知らせを恐れない」のは私の義、神の前での正しさは「キリストの内にあるもの」であり、そこには守りや交わりがあります。ですから、「悪い知らせ」のリアクションのなかに私は歩きません。箴言の12:23では「貧しい者の大地の下に富みがあるが、不義によって彼らはそれらを得られない」とありますが、神の心は貧しい者達が神がすでに創造された富、リソースを用いる事ができる様になる事に神の民が立ち上がり「声の無い者の代わりに語る」事だと信じます。 イザヤ書58章の10節には「飢えた者に心を配るなら」とありますが、経済を捧げる事だけではなく、心を配る事です。皆さんが多くを与える事を既にして下さっています、しかしあなたが自分の事を貧しいと思っているとしても、ほんの少しだけしかないと信じていても、何かはできますね。自分が与えられている特権を持っていない人々に何かしてください、それによってこの町、州、国の上にある霊的な状況を打ち破る事をしていきましょう。箴言11章では「穀物を売るものに祝福がある」とあります。ユダヤの文化では「毎日の生活、仕事」を主に捧げる事で礼拝となる事を強調しますが、私達も仕事を主の為に、主に捧げ、「正当な支払い」を受けるならそれは「豊かに与える事」として主によって認識されるのです。

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「その石を捨てなさい」エリック・ジョンソン

「その石を捨てなさい」エリック・ジョンソン

ヨハネ8:1〜12 詩篇671、2節   ダビデ王は戦いの勇者(土地を得、敵を追い出す)、その息子のソロモン王は平和によって治める(同盟により拡大した)者でした。戦いの季節もありますが、今は平和によって御国を拡大する季節だと個人的に確信しています。一つのパラダイムではなく、神のやり方に従う。 御国の文化を外側に与え、影響を与えるにはまず、自分が確信を持ちしっかりと御国に根を下ろす事です。毎日の生活で、闇の国の文化や不信仰や疑いと神の御国の文化の領域にそれぞれの足を置いている状況に直面しますが、不信仰や疑いからでて、神の御国に歩き出す事を私達は助け励ます役割があります。 イエスは姦淫の女が彼の前に連れて来られた時、一つの大きな変化をもたらしました。モーセの律法によれば姦淫の罪を犯した者は石を投げられて殺されるべきでした。 しかし、イエスは「罪の無い者から石を投げなさい」と命じ、だれもそこにいなくなった。それは人々を「裁く責任」から解放しました。パリサイ人は「私が裁く」であるが、イエスの選択は「私は覆い、守る」でした。 私達は「裁く事や批判する事」で知られ、好意を頂いてない場所があります。でも私達がそこに「羊飼いとして」いく事が、守り助ける為に憐れみの心を持っていく事を神が求めていると思います。私がテレビなどで見聞きする状況に裁きや批判をします。私達は状況を知りませんが、自分の意見考えで、批判するのです。 しかし、それを止めた時に神様はドアを開き、好意を与え始めて下さった事を感じます。

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「喜びに本気になる」ビル・ジョンソン

「喜びに本気になる」ビル・ジョンソン

ネヘミヤ8、9章 ネヘミヤ記は「再建」について書かれていて、神の癒しと回復が預言的に書かれている素晴らしい所です。ネヘミヤは王の前にいたが、エルサレムが廃墟となった事を聞き、悲しみ祈っていた。執りなしのいのりの力、インパクトは私達が「彼らの罪」と私達を分けないで、「私達の罪」として悔い改め祈る事にあります。 神の言葉が朗読された時に、あるものは泣き悲しんだとありますが、そこで祭司達は「悲しんではならない、今日はあなたがたの神主の為に聖別された日である」と言いました。私は「聖なる」という言葉と「悲しみ、罪責間、恥、祈り」などが同じパッケージにあると若い頃に思っていました。しかし、ここに恵みがあります。神はそのような方法で民を取り扱うのではなく、「まず、私の喜びを経験しなさい、あなたがたの力を主が喜ばれる」といって上等な肉、甘いワインを食べ、喜びなさい。民全てがそうできる様に、準備ができない人には準備した人の一部をわけるように語ります。そして、1週間宴会をします。そしてそのあと、9章の1、2節でわかるように「先祖の罪を告白する」事を導かれました。1週間の宴会と1日の悔い改めです。 この世では「喜びの感情や状況」がある時に「喜び、喜ぶ行動」をしますが、御国では「喜ぶ事を実践」するので「喜びの感情」がついてきます。私も自分の人生で 馬鹿馬鹿しく思われる様に喜んで、飛び跳ねて踊って主を賛美した事があります、人は「彼の人生は素晴らしくいっているにちがいない」と思ったかもしれませんが、それは自分に取って難しい状況のなかでした。喜びなさい、もういちど言います、喜びなさいと主が言ったので、自分は逃げたい思いや、感情をしっかりと治めて、簡単では ありませんでしたが、喜びました。 素晴らしい喜びに満たされて、おかしくないのに笑ったり、笑いすぎて顔がいたくなった事を覚えていますか?多くの私達があのような経験を主がまた、与えてくれないかと待っていますが、あなたがそれを以前受け取った時に、鍵をもらったのですから、必要なら、もう一度入ることができます。 約束の地に入るのは、占領するためです。所有するのです。

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「変貌を遂げる山」ビル・ジョンソン

「変貌を遂げる山」ビル・ジョンソン

マルコ9章 1節では、イエスが神の御国をここでは、今まで語っていた御国の様子にまた一つの説明を加えて語りました。「神の国が力をもって到来している」事です。黙示録を見ても力が解き放たれているのがわかります。力がある時、栄光もあるのです。 モーセとエリヤがイエスの所に現れましたが、モーセは権威、エリヤは力を旧約聖書の時代にひな形として現しています。彼らはイエスが後に達成する計画をイエスに話しに来ていたが、それは十字架での死と甦り、イエスご自身がこの世界の罪、もっとも忌み嫌うべき物そのものになられて、父なる神がその罪を打ったのですが、「罪を打つ」事が父の喜びであるただ一つの理由でした。 その時、御顔が代わり、御衣が白く、稲妻のように光った、それは「異なる」と言う意味の言葉であり、それは「栄光」の中に物事が現れると「様子、現れ」が変わります。この時イエスは、「ある時は人のよう、ある時は神のよう」でした。 「変貌」「変わる」と言う言葉はローマ12章の2節「心の一新によって自分を変えなさい」と同じいみです。これは「変えられた思い」の事です。心が一新すると「光輝き」ますが、それは「反射」ではなく、イエスが太陽の様であって、月の様に反射する輝きでないように、自身が輝く。神の希望をどのような状況でも輝かせる事ができる思い、心が「一新された心」です。神は神の思いをどのような状況に対しても、神の御心であるシャローム、希望、将来や神のご計画を解き放つ事ができる者達を立て上げています。「思い/心」の中に「違う世界、神の御国」を解き放つ事ができる人々です。御国への到来が力を持って行われる事をイエスは弟子達に見せた。見えない物が見える様になって現れる。 エリヤがエリシャに2倍の分け前の外套を残して去った時に、エリシャがもしエリヤから火の戦車によって焦点を奪われたら彼は願った物を受け取れなかったでしょう。 火の戦車はしるしや不思議であるけど、私達にとってもしるしや不思議が人々の関心をイエスからミニストリーや私達に向ける物であってはならないのです。しるしや不思議は人々の心、目が主イエスに向けられるためです。権威があなたを奴隷や束縛から導きだし、力があなたを約束の地に入れるのです。

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「力を受ける場所」ビル・ジョンソン

「力を受ける場所」ビル・ジョンソン

詩篇84篇 イザヤ54章1節 奇跡やしるしを信じるようになって、以前は無かったような葛藤や落胆する事があるでしょう。私達がイエスが私達の「模範」として生きられた事を信じて受け入れて、それを自分たちの人生でも従って行く時に信じていなかった時には経験しなかった落胆があるのです。避けて通れない事ですから、私達は「常に力を受け、励まされる」事を学ぶ事が必要になるのです。 イザヤ54章1節では不毛/不妊(あるべき物がない)の状況にある人が、その状況から神を喜び感謝する事で、臨在を受け取り、その臨在によって超自然的な生産性の中を歩く事が見えます。賛美するのは「答えが来る」からではなく、答えを自分が受け取っても、受けとれなくても関係なく「神が素晴らしい方」であるからであり、「答え」を受け取るために賛美するのではないと思います。 この箇所での賛美は、喜びの歌声を上げて叫べとあり、これは「馬鹿げている様に見える賛美」をしている事です。形だけの物ではないのです。勝利の内を歩み、祝福あふれる時には主を誉めたたえることは簡単です。しかし、苦しみの中にある時にこそ「馬鹿げた多様に見える賛美」を捧げましょう。ビジネス、家族、関係、あなたも「不毛」の場所があるなら、その場所から(まだ、変化が無い時から)主を賛美して下さい。 詩篇84篇は 「その力があなたにあり」とあるように、主の臨在を求める信者達の姿をみます。彼らは臨在の中に常に留まる事で霊だけでなく「体」までもが主を恋い慕いいたむ様に変わったのです。私達が心を開いて主を見上げる時に私達は変えられます。そして「シオンへの大路」がある、巡礼のような主に会いに行く人生をライフスタイルとする信者は「涙の谷」苦しみや落胆がある所でも「いのちの泉のわく所」みのりや成就のある所に変え、そしてそこに「後の雨の祝福」すでにある祝福に引かれて、もっと多くの祝福がくる場所になる事を経験します。信仰は、主への「信頼」であり、賛美は「信頼や信仰」の表現です。

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「祝福の中にあるチャレンジ」ビル・ジョンソン

「祝福の中にあるチャレンジ」ビル・ジョンソン

2歴代誌29章 ヒゼキヤ王はイスラエルの歴史の中でも、非常に大きな「改革者」でした。ダビデ王により、主に仕えた国が、その息子ソロモンによってもたらされた偶像礼拝によって 荒廃している時に国を受け継ぎ、国を改革したのです。興味深いのは、神は全人類を同じだけ愛しているけれども、ダビデはイスラエルの王達の業績を測るような基準として聖書に書かれているし、神ご自身の息子イエスが、「ダビデの子」と永遠に呼ばれる様にしたと言う事です。神の愛は全ての人に同じだけ与えられていますが、「好意」はそれぞれ異なるのです。好意は関係からうけるものです。そして「好意や祝福」は本人の為にではなく、周りの人達のために与えられます。もしそれを自分が受け取って、他の人に与えないならば死海のようになってしまいます、その命はなくなります。ヒゼキヤが国を再建した時に、まず祭壇を回復しました、人の住む町が先ではなく神の住まわれる所、礼拝/臨在を回復して礼拝する事によって、感謝の心と豊かに与える事の回復があり、それによって主が国を繁栄させたのです。ヒゼキヤが主に多大な信仰を持って、敵に対処したので、周りの国々はイスラエルの神を礼拝するためにヒゼキヤ王に捧げものをした。 王は後にそれら全ての宝物を敵のリーダーに見せたが、それは「自分の力を誇示して、自力で繁栄する事に働きかける」をした事であり、それによってイスラエルは敵の狙う国となった。これは「感謝の心」を無くし、プライドがはびこる時におこった。ヒゼキヤが死の宣告をせされ、神のあわれみによって15年延期されたが、その時にイザヤが預言した「裁き」の言葉への応答は「自分の行きている間に平和があればよい」と子孫達の事を繁栄される心を全く失ってしまった。

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「愛のスイッチを切らない」ダニー・シルク

「愛のスイッチを切らない」ダニー・シルク

愛のスイッチを切らない ダニーシルク ヨハネ15;13、14:私はベテル教会で沢山の奇跡、癒しなどの証しを聴きますし、それらは素晴らしい事です。しかし、私が一番嬉しいのは「愛のスイッチを入れたままにして、関係の悪い家族や友人に接した事でとても難しかったけど、でも結果は信じられないほど、素晴らしい変化でした」という証しです。イエスは「友人のために命をすてるなら」あなたがたはわたしの友です、と言っていますね。豊かに与える事は、「どれだけ与えたか」ではなく、私が思う事は「与えた後に何が残るか」でもあるのです。従うと言う事も教会の文化の中で間違って使われてきたと思います、例えば「頭と助け手」であるなら、「女の頭は男、男の頭はキリスト、キリストの頭は三位一体の神」とあり、多くは「頭」がボスであるという捉え方になり、そこから「独裁者」的に治める、ハイアラキー的な支配になっていますが、神の国には「ハイアラキ」は 存在しないのです。「妻よ夫に従いなさい」には「夫はキリストが教会を愛した様に妻を愛しなさい」とあります、それは「妻のために自分が死んで、彼女が生きる」という事です。愛を現す事を「葬式」まで待たないでください。

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「私にあわれみを、あなたにもあわれみを」ビル・ジョンソン

「私にあわれみを、あなたにもあわれみを」ビル・ジョンソン

詩篇111:2 主のみわざは偉大で人々によってたずね求められる。ヨシュアとヨシュアと共にあった長老達がいた時に、イスラエルは力強く栄えた。ヨシュア、長老達が他のリーダーシップが持っていた、一つ他と異なった事は「超自然的な事を経験した」です。自分で、理解できず、コントロールできないようなことを経験する事により、リーダーとして自然に神を愛する人々を導く事ができた。主のみわざを喜ぶ者達は、主のみわざを探し求める。「私は主を求める事に強い願い」に価値を持つ心になる神の働きは「主のみわざ」を喜ぶ者達によって知られる、探される。ある人達は証拠を求めるし、それも癒しの働きでは否定しませんが、自分のする事は「心のまずしいもの」の聖書箇所の様に、心の貧しい者は見て喜ぶので、証拠がなくても信じる人達に私はもっと与える事にしています。

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