次の記事は、「新しい一人の人」 追録3-3(著者:アリエル・ローレンス・ブルーメンソール)からの抜粋です。本書販売の情報は記事の下にあります。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

第一テサロニケ 4:16-17

テサロニケ人への手紙第一のこの個所は、過去150年以上にわたって論争を引き起こしてきました ─ そして、私たちはこの同じ期間を本書で学んできました。聖書を信じ、聖書を愛する多くの信者は、千年王国の前に主が再臨されて地上にエルサレムを首都とする神の王国を回復するという見解と同時に、もう一つの偉大なパウロの奥義としていわゆる「教会の携挙」に関する事柄がここで説かれているということをも教えられてきました。すなわち、真の信者は、地上に対する神の最後の裁き(怒り)の期間-いわゆる「大艱難時代」-を潜り抜けることなく、かえってイエス様が遂に地上に、物理的に降り立つまで天に「携挙」される、というのです。この見解に与するほとんどの人は、ダニエル書や黙示録の預言に基づいて、このことはイエス様が再臨される3年半前ないし7年前に起こると信じています。この教えはディスペンセ―ション主義的世界観-本書の最後の数章で取りあげている ─ の主要な柱となり、「レフト・ビハインド」のような映画・著作によってアメリカのクリスチャン・ポップ・カルチャ―の大きな部分を占めています。

しかし、本書の読者なら推察できるように、我々の立場はこれとは完全に異なっています。我々は、まさに再臨へと導くものとして、新しい一人の人(エペソ書)と完成公式(ローマ9-11)についての預言的ダイナミズムを見ています。このことは、ユダヤ人と諸国の民から成り、イスラエルと諸国民がメシアにあって一つとされた「教会」が、地上における終わりの時代の中で偉大な役割を果たすことを意味しています。我々は、大艱難の只中を通るでしょうが、イェシュアはその時のために我らを備え、強めて、その再臨に際して主と共なる最終的な勝利の中に我らを導いてくださること-さらには、このときが信じられない大収穫の時ともなること-を約束してくださったと信じています。この収穫はただ超自然的に起こるのではありません。むしろそれは、神の民があらゆる諸国に「御国の福音」を宣べ伝えることの中に神が働かれる(マタイ24:14)という、いつもと変わらないダイナミックな働きとなるでしょう。

以下では、なぜ我々が「艱難前携挙」説が「全く」間違っていると強く信じるのか、そしてなぜそれがその支持者に危険な影響-終末時代に実際に起こることのリアリティに彼らを備えさせることをしない-をもたらすことになるのか、主に四つの理由を挙げて説明しようと思います。

  1. 艱難前携挙/近代以前には教会史において全く見られなかった、完全に新奇な理論
    イエス様は実際に再臨する前に、秘密裏に「お越しになって」信仰の教会を携挙されると考えることは、実に様々な帰結をもたらす非常に深刻な理論です。イエス様も使徒たちも、終わりの時代のこと、すなわち主が再臨されて自身の御国を地上に打ち建てられる前に起こることについて、多くのことを教えられました。もしご自身の計画の一部が、仮に終わりの時代の初めの時点もしくはその中間地点において信者は天に引き上げられ、その後さらに終わりの時代の出来事が地上に起こり続けるのだとすれば、我々はこのことが聖書にはっきりと教えられ、初代教会の主要な教えの柱となるべきであったことを期待すべきでしょう。

    しかし、事実はその逆です。それはイエス様も使徒たちも教えなかったし、使徒時代もしくはその後数世紀において教えられたことの中に、そのいかなる痕跡をも見出すことができないのです。かえって、聖書、それに初めの2世紀における教会教父の文献における圧倒的な証しから分かることは、使徒の終末論は、明らかに、a)前千年王国説であり、b)文字通りの主の再臨と地上の王国を信じており、c)教会は再臨に至るまで地上にあることを信じる、というものです。
  2. イスラエルと教会は永遠に分離される?
    この神秘的な「艱難前携挙」の教理は、わずか150年前、ディスペンセーション主義の勃興に伴い、現れたのが最初でした。ディスペンセーション学派の創設に当たり、二人の偉大な人物がいました。それは、C.I.スコフィールドとジョン・ネルソン・ダービーです。既に本文18章で示したように、その言説の中には、我々が同意できること、そしてディスペンセーション主義に関して感謝すべきことが多くあります。しかし、その終末論的な見解におけるイスラエルと教会の(永遠の!)運命には同意できません。ダービーとスコフィールドにとって、神の民の二つのグループには永遠の区別が存在します。それは、天的なキリストのからだ-教会と、地上のイスラエル-ユダヤ人です。結果として、古典的ディスペンセーション主義は、明白に、聖書預言を、二元主義的に描写するに至ります。いくつかの預言はイスラエルに当てはまり、他はいわゆる「教会」にあてはまります。イスラエルのための神の計画は地上的なものであり、教会のための計画は天的かつ霊的なものです。極端な場合、この二元主義は、教会はキリストの花嫁であり、イスラエルは父なる神様 ─ Jehovah ─ の花嫁であると言うまでに至ります。

    本書をざっと読んでいただければ、このようなイスラエルと教会の二元主義的な、永遠の分離を主張するいかなる見解も採るべきではないことが分かっていただけるでしょう。既に見たように、神がこの時代にユダヤ人と諸国の民をいかにしてメシアにある一つのからだにしようとしているのか、いかにして諸国民をイスラエル連邦に組み入れ、本質的に「イスラエル」であるオリーブの木に接ぎ木されるのか、そしていかにしてユダヤ人は救われる ─ エクレシアあるいは教会に繋がれる ─ のか、ということを巡る奥義こそが、まさに新しい一人の人、および完成公式であるのです。

    では、ユダヤ人である1世紀の使徒たちについてはどういうべきでしょうか。彼らは、プランAもしくはプランB ─ イスラエルか教会か ─ のどちらか一部だったのでしょうか。また、現在の「残れる者」であるメシアニック・ジューについてはどうなるのでしょうか。これも既に見たように、神はプランAやプランBの神ではなく、ユダヤ人と諸国民、あるいはイスラエルと教会に関して「精神分裂」には陥っていません。神は二つの異なる民、もしくは二人の異なる花嫁を持っているわけではありません。キリストにおいて、神は、一人の頭の下で、「天上にあるものも地上にあるものも」一切を共に一つに集めることを約束されたのです(エペソ 1:10)。したがって、我々は、この古典的なディスペンセーション主義の土台に基づくいかなる神学的結論 ─ たとえばイスラエル(地上に住むユダヤ人)だけを史上最大の神の怒りまた艱難に耐えるために地上に残しながら、教会は艱難前に携挙される ─ に対しても注意深くあらねばなりません。
  3. 「我々は本来怒りを受けるべき者ではない」 ─ 艱難前携挙説-という考えが起こってきた歴史的背景
    艱難前携挙説のほとんどはテサロニケ人への手紙第一 5:9「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」についての誤った解釈に焦点を当てます。事実、ディスペンセーション主義神学は、イエス様が「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような」(マタイ 24:21)と語った、終わりの時代のひどい大患難に、信者が苦しまなくてもよいという問題にほとんど取りつかれているように見えます。ディスペンセーション主義が起こったのは、教会が「堕落」とさえ言い得るような大きな揺さぶりを経験していた時のことです(第二テサロニケ 2:3)。20世紀を迎えたばかりの頃(1900年代初頭)には、近代主義、自由主義、そして「社会的福音」が多くの教会や教派を席巻しており、それでも、多かれ少なかれ、聖書を書かれている通り正確に信じる信者はわずか少数のレムナントであるように思えたのです。このレムナントは、主流派に属する諸教派と、道徳水準が急速に変化しつつある西洋社会からますます辺境に追いやられていると感じていました。辺境に追いやられてはいましたが、迫害はされていませんでした。

    ディスペンセーション主義神学は、多くのクリスチャンがこの世のより広範な文化との相克の中で「光と闇の対決」ということを深く感じていた国々(主としてアメリカとイギリス)で起こったのですが、実際には、数を増しつつあった非宗教的でリベラルな社会から、それほど迫害されてはいませんでした。そして最終的にディスペンセーション主義は、知識、科学、そして技術が驚異的に花開く時代を通して成長したのであり、人々の聖書解釈の仕方に影響を与えました。特に、ディスペンセーション主義者らは、多くの聖句-とりわけ預言-を、字義通りの体系的(とされた)理解から成る超合理的な範疇の中に押し込め始めました。結局、時代の合理的、科学的精神が、聖書預言をして独自の類の「科学」に適合するよう命じたのであり、それによれば預言が成就する正確な時と季節を決定するために、時系列と詳細なチャートが作成されるべきこととされました。

    こうして、次の四つのことが相まって、艱難前携挙というこの新奇な教えを生み出したのです。
    • 欧米におけるクリスチャンに対する深刻な迫害の欠如 ─ その経験から次のような結論に至りました。「我々は忠実なレムナントとして艱難や神の怒りではなく、救いのために定められている」と。
    • イスラエル(地上のプランA)と教会(天におけるプランB)という二元主義。「我々教会は、地上のイスラエルとは異なる天的な運命を担っており、とりわけ終わりの時代にはそうである。」
    • 「光の子対闇の子」という二元主義的対立がますます高じていく感覚。「我々は『この世』とは違って、分離されているから、裁きと艱難というこの世の運命とは何の関わりも持たない、ということが唯一理にかなった考え方である。」
    • イスラエル対教会の二元主義を前提とする、過度に合理的、体系的な預言理解。「教会は怒りではなく、救いを得るために定められているのであるから、終わりの時代の最悪な裁きと激変に関する預言成就の焦点は、地上のイスラエルに適合的なのであって、天的な教会とは関係がない、としなければならない。」

      では、教会はどうなるのでしょう。あゝ、分かった!大艱難の前に密かにキリストは来られて、主の教会を携挙されるのだ。どうだ、この教えは!
  1. 艱難前携挙の教えに対立する聖書の証拠初代教会は再臨について前千年王国説に立っていました。彼らはすぐにも主は帰って来られて、地上を千年間治められると信じていました。新約聖書には主の再臨に関する教えは数多くありますが、ディスペンセーション主義によるスキーム ─ 教会を天に上げるために秘密の、天的な主の再臨がまずあって、それから一定の時間の後に、最終的かつ完全な形で地上に栄光を帯びて戻って来られる ─ のためには、それを匂わせるヒントさえどこにもありません。特定の聖句を、文脈を無視し、曲解して、初めてこのようなスキームを想像し始めることができるのです。

    第一テサロニケの文脈において、携挙を教える最も詳細な聖句を見るならば、このことが完全に明らかになります。4章13節から、パウロは、終わりの時代、復活そして再臨についての教えに戻り、出来事の順序、とりわけキリストにあって既に死んでしまった人々への気遣いに焦点を当てます。彼は、「主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」(15節)と書いています。これ以上明確に言うことができるでしょうか?ここで「我々、主が来られるときまで生き残っている」というのは、既に「眠ってしまった」つまりキリストにあって死んだ人々と対比されているのであって、既に携挙されてしまった人々と対比されているわけでないのです。

    第二に、15節及び16節は、この携挙が決してキリストにあって死んだ者の復活に先んじることはないと教えています。大患難の後に、キリストの再臨に際して、死者の復活がまずあって、それから終わりにすべての者の復活(携挙)が起こるのです。もし生きている信者の携挙が死者の復活に「決して先んじることはない」のなら、それは同様に艱難の後でなければならないはずです。そうしてようやく我々生きている者が空中に引き上げられ、主とお会いするのです(17節)。要するに、パウロはテサロニケの信者に、イエス様が来られる直前の世代においても、現に生きている、つまり地上にいるユダヤ人と諸国民から構成される教会が存在するということを明らかに教えているのです。そして、パウロが、「今生きている私たち」と書いたのは、この終わりの時代の教会に自分自身をも含めていることを意味するのであり、そうであればパウロを含む同時代の「聖徒たち」は天に携挙される一方で、大患難時代になって初めて信仰に立ち返るもう一つのグループの人々がいることを語っているなど、およそあり得ないのです。

    再臨、死者からの復活、そして携挙のタイミングについて明白に語る、さらに6つの新約聖書のテキストがあります。テサロニケ人への手紙第一4章におけるように、それらはみな、携挙は大患難の終わりに、かつ多かれ少なかれ栄光のイエス様の再臨と同時に起こることを教えています。
    1. マタイ 24:29-31「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに・・・」オリーブ山でなされた預言において、イェシュアは、地の四方から-つまり全地から-選びの民を集めるために御使いを遣わし、ご自身が栄光のうちに来られることをはっきりと語られました。そして、このご自身の民を「呼び集められる」ことは、艱難の後に来るものとして描いておられます。イェシュアは、誰を呼び集められるのですか?(訳者注「選びの民」!その時それ以前に秘密裏に携挙されている民が別にいるのですか?)
    2. マタイ 24:38「その日まで」イェシュアは、ご自身の再臨をノアの時代の洪水にたとえておられます。人々はノアが箱船に入って万物が破壊されるまさにその日まで食べたり、飲んだりしていました。(この比喩の中で)主が来られる日と、洪水により万物が破壊される日の間にズレはありませんでした。まさに洪水の時に至るまで世はますます悪くなり-ノアとその家族は洪水が来るその瞬間までそこにいたのです。イェシュアの再臨に際して、野にいるある者は取られ、ある者は残されます。臼を引いている二人の女のうち、一人は取られ、もう一人は残されます。つまり、信者は天に挙げられて、たちまち復活のからだを受けるということです。
    3. マルコ 13:24「その苦難に続いて」マルコ伝は、マタイ伝が描くオリーブ山での説教中、苦難、再臨、そして携挙について主がお語りになったすべての詳細を繰り返しています。そして、携挙は艱難の「後」であることも繰り返しています。
    4. ルカ 17:27,29「その日まで・・・その日」ルカ伝もまた主の再臨をノアの洪水と比べるイェシュアの教えを繰り返すとともに、さらにソドムの破壊との比較を追加しています。ノアと同じように、ロトの場合もまた、完全な破壊はすぐに来ました。「義人」も「不義の人」も、全ての人が終わりまでそこにいたのであり、両者にとって終わりの時が到来する時間のずれはありませんでした。同じ日、同じ時間にロトとその家族は御使いによって「携挙」され、炎の裁きがソドムとゴモラに下されました。
    5. 第一コリント 15:52「終わりのラッパ(ショーファー)共に」「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」黙示録では、艱難の時期に七人の御使いがラッパを吹く様を描写しています(7つのラッパは、ラッパを吹きならす祭り(レビ記 23:24)、そして大贖罪日に最後のラッパを吹きならすこと(レビ記 25:9)に関連付けられています)。携挙は、最後の(終わりの)ラッパと共に、つまり7つのラッパの後に起こるのであり、それは艱難の後、死者の復活の直後に起こるのです。

結論

「終末預言についての些細なことで争うとは一体どういうことだ?」と抗議する人があるかもしれません。もしくは「将来のことは心配しないようにしよう・・・ちなみに私は全・千年王国主義者だ。つまり終わりの時代に何があっても一向に構わないよ!」一体、終末論の何がそんなに重要なのでしょうか。

こう考えてみましょう。あなたが仮に軍隊を訓練しているとしましょう。軍隊というのは、まさにその定義からして戦争が勃発することに備えるものでありますが、ちょうど訓練のさ中にあなたは兵士たちを取り分けて、次のように言ったとします。「私は最高司令官からたった今聞いたのだが、閣下は最悪の戦いが実際に起こったときに、我々の部隊に特別の好意を与えると約束してくださった。私たちが秘密の番号をダイヤルすると、特殊秘密部隊のヘリコプターが来て、我らすべてを引き上げ、実害を受けないようにしてくださるということだ。閣下は、別の軍隊を遣わして戦いに当たらせる所存であり、我らは最悪の戦いのさ中にはもはや戦地にはいない!」このことがそれ以降の訓練を受ける者の態度にどのような影響を与えると思いますか。果たして同じ集中力と動機づけを維持して自己を鍛錬するでしょうか。彼らは戦闘態勢を維持しながら、上官のあらゆる命令に進んで服従しようとするでしょうか。もちろん答えはノーです。

あるいは、あなたがあるスポーツチームをプレーオフのために訓練しているとして、同時にこう言ったとしましょう。「今や、我々は最終ラウンドに突入しようとしているが、コート上では他の選手が君たちの代わりを務めてくれるので、君たちはもうプレーしなくても結構だ。」<一気にやる気を失わせる人>のことを話しています。

これが艱難前携挙説の問題です。それは教会に「掩蔽壕(えんぺいごう bunker)」メンタリティーをつけてしまうのです。すなわち、終わりの時代の出来事がさらに進行すると、頭を砂の中に(あるいは雲の中に)隠してしまい、現在の艱難が本当に最後のものかどうかと思案しつつ、とりあえず神がこれを「吹き飛ばして」艱難から助け出してくださることを求める教会にしてしまいかねないという問題です。それは教会に終末時代に関する完全に誤った「霊的態度」を許してしまい、実際の教会の役割-地上において反キリストの憎悪の焦点であるイスラエルと共に立つこと(イスラエルを捨てることではない) ─ にまったく備えさせないのです。

イェシュアがこれらの出来事を語られたとき、それとは全く異なるスピリットによっていました。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ 21:36)あるいは、「ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」(マタイ 24:20-22)。

まず、イェシュアは、明らかに弟子たちに、艱難の時に彼らはここ地上に-とりわけイスラエル/エルサレムにいることを教えています。

第二に、少なくとも、主の再臨時にエルサレム地区にいる聖徒たちには、最悪の艱難から逃れるようにと言われていますが、それが天への秘密の携挙であることを示唆するものは何もありません。第三に、主は我々に祈り深くあること、そして注意深く目を醒ましていることを望んでいます。神の約束は、ちょうど歴史を通じ、地上の環境の只中で、ご自身の民(イスラエル)を奇跡的な介入によって救ってこられたように、我々を艱難から救い出すことなのです!もちろん、この救いは、おびただしい数の御使いと復活した聖徒と共に反キリストとその軍勢と戦うため、大患難の最後に、栄光のイエス様が再臨されることよってはじめて完成されます。主が返ってくる前の地上における神の民(及び御霊と花嫁)の最後の、偉大な叫び若しくは祈りは、「主イエスよ、来てください。・・・マラナタ・・・主の御名によって来られる方に祝福があるように。」(黙示録 22:17-20; 第一コリント 16:22; マタイ 23:39)であって、「主よ、我らをこの地上から天に引き上げてくださり、我らがあなたの怒りとこの地にやってこようとしている苦難を回避することができるようにしてください。」ではないのです。「主よ、来てください。」であって、「主よ、ここから連れ出してください。」ではありません。

以上のことは、新しい一人の人とどうかかわるのでしょうか。イェシュアのマタイ24:22における預言はこの点について興味深いものです。主は、この大艱難の日数は「選ばれた者のために」短くされますと語られています。どれだけ短くされるのでしょう。主は語っていません。私が信じるところでは、これは、本書で学んだ神のご性質と聖書預言(特に黙示的/終末預言)に関わる二つの基本的真理を指し示すものです。

第一に、神は裁きをお喜びにはなりません。神のみ旨は「すべての人が救われて、真理を知るようになることです。」(第一テモテ 2:4)。聖書の神はサディストでありません!神の怒りと裁きの明白な目的は罪を懲らしめることである一方で、人が悔い改め、結果として神に立ち返ることこそ、常に神の最も深い願いなのです。既にヨナ書から学び得るように、神が特別な裁きの預言を出す主要な理由は、実に罪人にその道から立ち返るようにと警告することです。ニネベでなされたような真摯な悔い改めがあれば、神は喜んで「御心を変え」、異邦人で、異教徒の「汚れた」罪人にさえ憐れみを示してくださるのです(これがヨナ書の視点です)。確かに、終わりの時代には大艱難がありますが、イェシュアは、神がご自身の愛する者、選ばれた者のために大患難時代の日数を短くすることを望んでおられると、我らに教えてくださっています。しかし、どれだけ短くするか、またなぜ神はそれらの日々を短くするのかについて、イェシュアは我らに語ってはくださいませんでした。

この奥義に対する解答の多くが我々にかかっているということが、果たしてあり得るのでしょうか。それは、キリストのからだがいかにして一つとされ、和解せられるかにかかっているとでも?主の花嫁はどれだけ「しみがない」ものになるのでしょうか。御からだにおいて、ユダヤ人と諸国民、日本人と中国人の間に一致 ─ 互いに対する愛と奉仕ととりなし ─ が見られるでしょうか。我らは世界の救いと主の再臨を求めて、信仰ととりなしと叫びをもって立っているでしょうか。それともヨナのように、「神よ、そのことはご自分でなさっていただき、私を巻き込まないでください。私はここから出て行きますので。」というような態度でいるでしょうか。あるいは我々は神学的な掩蔽壕(えんぺいごう)(もしくはクジラの胃袋!)に隠れて、イスラエルのユダヤ人が苦しみながらでも、神が我らを世から連れ出してくださるのを期待しているでしょうか。つまるところ、それは、イエスが再臨されるとき、地上における我らの間にどれほど純粋で圧倒的な信仰を主がお認めくださるかにかかっている、ということがあり得るのでしょうか(ルカ 18:8、ヤコブ 1:12、黙示録 2:17, 26, 3:21)。

私はそう信じます!神はサディストではなく、我らはマゾヒストではありません。それでも、我々は、御名のゆえに我らの道に来るいかなる苦しみも、また殉教さえも、すすんで耐える用意ができています。とはいえ、我々は大患難を心から待ち望むといった、ひねくれ者では決してありません。イェシュアは、その日数が少なくされるよう、またエルサレムから逃げるのが安息日にならないよう祈るべきこと等を我々に教えられました。これらの祈りは、どれくらいの効果を発揮するのでしょうか。それは我々にかかっているのです!

「新しい一人の人 ~キリストのからだにおけるユダヤ人と異邦人の和解~」
著者:アリエル・ローレンス・ブルーメンソール(リバイブ・イスラエル、ティクーン・グローバル)
追録の翻訳:行澤一人 「リバイブ・イスラエル・ティクーン・グローバル・ジャパン」
訳者:One New Man 翻訳チーム(行澤一人、高橋ひとみ、桃井亮)
出版:ゴスペル・ライト出版
https://www.gospel-light.info/?pid=139274845