投稿者: Onfire Japan

「愛 対 恐れ」ビル・ジョンソン

イザヤ51:12〜13、54:14。1ヨハネ4:18〜21  私達の人生に非常に大きく影響する視野、フィルターのようなものが2つあります。 それは、「愛」「恐れ」です。 「愛」のフィルターのある人は試練の中でも神様の良さを見つけ、良い知らせの中を歩む事ができます。しかし「恐れ」のフィルターがある人は、いつでも心配、恐れ、焦りにつながってしまうでしょう。 神は何度も「恐れてはならない」と聖書の中で命じています、これは命令です。感謝です、神が命じているなら、それは私達ができない事ではなく、神の恵みによってその中を歩む事が出来る事なのです。ギデオンの軍隊の事を考えてください。神は軍隊で恐れている者を返し、少ない人数で戦わせました。そのように神があなたを戦いの中に導くなら、すでにあなたは戦いの準備ができているのです。恵みがあるのです。  人が敵の嘘に同意して、受け入れた時に敵は力を増大します。ですから、普通に考えて、心配しそうな状況があったり、恐れの感情がある事は罪ではないのですが、その嘘を信じる事、同意する事は罪ですから、私達は同意しない選択をするべきですし、これは選択できるのです。 イザヤ51章では「わたしがあなたをなぐさめるのに、なぜあなたは人をおそれるのか」と主は言います。主はどんな方でしょうか?主が共におられ、慰めてくださるのです。主は信頼に価する方ですし、信者は御人格を知り、主ご自身が与えてくれた約束、御言葉で自分の果たすべき責任、それは、御言葉の真理によって自分がしっかりと真理にとどまる事です。私は御言葉をカードにし、コンピューターにいれ、宣言し、黙想し、自分が受け取った約束を忘れないように働きます。また、54:14にあるように、「虐げ」とは「圧迫」であり、それは人間の思いから、肉の罪から派生し、そこに悪霊がやってきて、足がかりを作るのです。私達が「恐れない」ならば、「圧迫ー霊の領域から暗い雲がやってくる事」は近づきません。  1ヨハネの「全き愛」は、ただ神からの愛を心に受けるのではなく、その愛をもって仕える事で「全き愛とされる」のです。見えない領域での神との体験は、見えるように表せれる必要があるのです。

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「陶器師と粘土」エリック・ジョンソン

2コリント5;15〜17 ガラテヤ5:1  祈りによって私は自分の間違った神学に気がつかされるのですが、皆さんはどうですか?今まで「神様 私の人生のあなたの御心はなんですか」と祈った事はありますか?そうです、それです。 2コリ5:15を見てください、あなたは既に「自分」ではなく「キリスト」の為に生きる者とされたのです。ですから、あなたの人生は「あなた」の為ではなく、主イエスの為に生きる事が神様の御心です。これは、自分の肉との葛藤だけではなく、特にアメリカや欧米の「自分中心」の文化においては、非常に難しいチャレンジです。自分中心である事が日常であり、日々語ってくる「自分が何をするか」が大事という文化の声に対して、逆行することです。 具体的には「肉によって、人間の基準によって自分の事をも、人の事をも見ない」事です、それは「あなたの中にある栄光の望みであるキリスト」の事ですが、人々をあなたの中にいるキリストを通して見る事であり、相手にキリストがいる事を見る事です。なぜなら「キリストの中」にあるのですから。全てが新しくなった人であるなら、奴隷から自由人にされたのです。ですから、自由にされた戦いの後の、自由であり続ける戦いにも勝利するのです。 私達は「神が陶器師であり、私は粘土」と言いますが、陶器師の仕事は激しい、力仕事です。粘土はまず、練られ、水を加えられ、高速で回るろくろに乗せられます。そして、周りが見えないような早さで、造形され、そして火に入れられます。火で焼かれていると感じるなら、その状況から逃れたいと思うなら、まず、文句を言う事を止めましょう。私達の人生も、火の中で「形を保ち続けられない」ならば、もう一度同じ工程を神様は歩ませるでしょう。あなたが同じような葛藤を繰り返すなら、その事を覚えてください。自分がこの工程を通る事は嬉しく無いですが、キリストの中にあるので、あなたの中にキリストが形造られる工程があるのです。それが神様の働きです。

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「深みが深みを呼ぶ」ビル・ジョンソン

創世記7:11 詩篇84:6  神様は聖書の中で「自然の領域が先、次が霊の領域」である事を教えています。また例えを用いて語られますが、雨はなんでしょうか?聖霊の注ぎです。 創世記7:11に「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」とあります。これは、ノアの洪水のところですが、旧約の視野では裁き、滅亡でした。しかし、新約の視野で見ていると「回復、再建」といえるでしょう。英語の聖書では「巨大な水の深み、淵」とあるので、この水は私達の心の深い所をも指し示しています。私達信者が新生した時に神の事に対しての情熱をもって生まれてきますが、心の奥がその情熱、求める心、必要を見て神がそこで働く事ができる事を信じるゆえに、心が砕かれ、神を呼び求める時に、すでに天において神が行っている事を地に注がれるのです。 神様は必要に答えられますが、必要自体が神様の働きを解き放つなら、最も貧しい国は明日にも、もっとも豊かになるでしょう。必要がある事自体が神を惹きつけるのではなく、必要を見た信者の信仰に神様は引き寄せられるのです。祈りと信仰の行いのコンビネーションが必要です。ノアの時代に洪水の水が地上を覆った事を新約の視野で見るなら、それは主の栄光、御霊の注ぎが地上を覆うことであると信じます。ですから、主はそのような注ぐ事を与える事ができる器の人々を、求めています。詩篇84:6から見る事ができる事は、私達が涙の谷を人生で歩む時に、それは「砕かれた心」を持つ事になり、そこで賛美と感謝を捧げる時に、それは「泉」を湧き出させ、リフレッシュを与え、天からの御霊の注ぎによって水たまりができるほどになるのです。失望や、落胆の中でも主に感謝と賛美をささげましょう。それは結果的に私達の環境を変える事になります。私達の深みが砕かれ、現れる時、主が天からの雨を、御霊を注いでそこに答えてくれるのです。

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「宣教と祝福」ビル・ジョンソン

2コリント9:6〜11、ピリピ4;10〜19、ホセア10:12  ベテル教会は、しばしば「祝福を受けたい人の集まり」と嘲笑されましたが、私の態度は「それのどこに問題があるのですが?」というものです。なぜならば、私達はもらった物を全て与えるからです。私達が祝福を受けることはそれを与える為です。2コリ9章、ピリピ4章これらは2つとも「祝福と繁栄」に関する約束であり、表面的には「個人的な繁栄」の事が書かれています。神は私達を繁栄させ、祝福する事を願っています。2コリ6章には、その為に「全て」に対して「常に」「あらゆる」恵みを溢れるばかりに与えます。神は豊かに与える方です。無駄はしませんが、豪華に豊かに与えるのが神様の本質です。10節にあるように「食べるパン」は私達を保ち、「蒔く種」は私達が投資する、与える為です。義の実とは、私達がキリストの内に置かれ、神の義とされましたが、その義なる行いをする事によって「義の実」は現れます。 ピリピ4章では、パウロはピリピの人々から支えられて、テサロニケで奉仕していたのがわかりますが、この「支え、支援」は「神が喜んで受けてくださる供物」であり、自然の領域では「物や経済をパウロに与える」ですが、神の御国の世界観では「神が喜んで受ける捧げ物」になり、2コリにあるように「惜しみなく与え、神への感謝になる」となるのです。コリントでは興味深い事にパウロはテントメーカーとして市場で働きました、リバイバルが集会の講壇から起こっていたのではなく、市場で人にキリストを現す事から始まっていたからです。 私達の祝福と宣教には繋がりがあります。「豊かに与える事」は私達の打ち破りに関係しているのです。私は時に「数年葛藤しているのです」といってくる人に「豊かに与えるべきかもしれないですね」と励まします。また、信者が受ける事ができる、神からの満たしの資源は、私達の信仰や、仕事の状況、住居地などに関係せず、それらは「キリストイエスにあるご自身の栄光の富」から来るのです。

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「永遠はすぐ先にある」エリック・ジョンソン

2コリント3:16〜5:13  「自分はなぜ存在するのか」「私はまだ到達するべき地点に到達していない」という思いは、多くの信者、未信者の中にあるものです。今日は、この思い、疑問に対して、2コリントでパウロが語った所から説明できると思います。 「人が主にむくなら、そのおおいが取り除かれる」とあります。私達は、主を見上げた時に、主のように、また主の内に変えられていきます。栄光から栄光に変えられ、信者であるならこの一方通行だけになります。 それは主の働きです。「土の器」とはあなたの体です。私達は「土の器」であり、計り知れない宝、キリストを受け取っています。 「地上の幕屋」と「天にある神の造られた建物」とあります。私達が「到達する所にまだついていない」と思うことは、この幕屋を脱ぎ、天からの住まいを着たいと思っているのです。あなたは、主を見上げ、壮大で偉大なものを見たので、この世では満足しないのが普通になったのです。 あなたは異邦人であり、外交官です。外交官は、所属している国や地域の影響を配置された所で増加するのが役割です。私達の教会の文化で「天の御国を今ここに、そしてこれからもやってくる」として働きますが、永遠の事を考える事を忘れてはなりません。永遠はあなたのすぐ先にあるのです。70、80、90年生きること、長いと思いますが_?でも永遠の事を思うと、ほんの一瞬です。 「私達の念願とする所は、主に喜ばれることです」とありますが、あなたの地上での働きは主を喜ばせる為のものです。それは私達は裁きの日に主の前で行いによって報いを受けるからですキリストの愛が私達を取り囲んでいる」のは、素晴らしいことです。そして、全てがキリストから始まり、キリストを通し、キリストの所に帰るのです。ですから、あなたの分子レベル組織の存在であってもイエスによってすでにしっかりと握られています。それがあなたの存在の理由です。

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「シャカイナはあなたの役割」ポール・マンワリング

ポール・マンワリング師  出エジプト40:34.35 イザヤ61:3  シャカイナとは、「栄光の雲」の事であると以前は思っていましたが、そうではありませんでした。シャカイナとは ユダヤ人教師が使い始めた言葉で2つの意味を現します。それは「住まわれる神」「住まわれる神の住む所」です。 神は園に住み、神はモーセに幕屋を作らせ、そこに住み。ダビデが神殿を建設する願いを持った時に、その息子のソロモンに作らせ、そこに住み、イエスが地に来られ、イエスの体を持って住み、聖霊によって 今 私達が神殿にされました。 神は私達を栄光の為に創造され、私達にはモーセの顔にあった栄光より偉大な栄光があるのです。それは私達のうちにあるキリストです。 ソロモンの建設した神殿は60兆円位の建設費だと思われます。しかし、イエスはその神殿に対して「この神殿が土台まで倒されるが、私は新しい神殿を3日で建てよう」と言われました。 それはご自身の体の事を指して言われ、死なれ、葬られ、3日の後によみがえりました。そして、それは私達、数多くの「神殿」がこの地上を神の知識、栄光、シャカイナで満たすためでした。 神はご自身の住む所として、エデンの園、幕屋、神殿を準備し、整えました。そして、満たされました。同じようにイエスもあなたを聖別し、清め、整え、今聖霊様があなたを満たしています。 あなたの体は聖霊の宮です。どれだけの価値があるのでしょう。 シャカイナ、それは「神の栄光」です、これは私達のアイデンティティーではありません。私が栄光であるというならば不敬です。しかす、私達は栄光を与えられ、栄光、シャカイナを「運ぶ者」であり、これは私達の使命、役割です。 それは、あなたの生活のどこにでも、あなたが神を現し、反映している時にあることです。あなたが、人を癒すなら癒し主である神の栄光を現し、教師、母親、ビジネスマン、なんであっても神の御性質を現している時に神はあなたを見て「ここにシャカイナ」がある」と言って、喜ばれるのです。

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「後のものが先になる」ビル・ジョンソン

マタイ19;20、20:1〜16 ヤコブ3:16、17  私達がイエス様と共にいる時に、心は主からの夢や、使命、偉大な事をしたい願いを受け、それらが沸き立ってきます。弟子達は漁師でしたが、ある日急に世界を変える者になる!となったのではなく、イエス様と過ごした時間のなかで変化しました。ヨハネとヤコブは炎を天から落として、自分達を通らせない村を滅ぼしましょうかと言って、神と共にあり、偉大な事が出来る、夢見る事を望む事という正しい根から、間違った実をならせてしまいました。もちろんイエス様はその枝を刈り込みました。神の願い、使命を行う願い、それは偉大な事を達成する事を夢見る事であり、正しい根が生えていましたが、私達は間違った実をならせる事があるのです。「刈り込み」はイエス様の栄光を良く現せるようにとの神様からの「訓練」であり、「罰」ではありません。正式な子供としての特権です。 「後の者が先になり、先の者が後になる」という箇所がありますが、以前私はこの箇所の事は、「神様はへりくだった者を高く上げ、昇給させ、自分中心で、自力で昇給しようと思うなら神はその人をへりくだらせる」という事だと思っていましたが、でもそれだけではない事がわかりました。神様が私達に夢や、願いをくれます。私達は祈り、求めていく過程で整えられ、試みられ、祈った事の祝福が実際に私達を破壊してしまわないように主の憐れみによって準備されるのです。妬みや嫉みは、私達が祈って願っている神様の領域の事柄、祝福から私達を遠ざけ、悪霊は働くドアを開きます。時に疑いや、糾弾を「見極める賜物」と言わないでください。他の人があなたが祈り願い、断食していた祈りの答えを受け取り、昇給したら 自分自信の勝利のように喜んでください。あなたが共に喜ぶ事、自分が願っている事を受けた人を祝福する事があなたが答えを受け取る事が出来るにふさわしい者にします。 ですから、後の者が先になり、私達の心に普段は隠れている「妬み」「嫉み」「怒り」がでくる事は、神の憐れみによる訓練ですので、それたは告白し、悔い改め、取り除きます。

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「あなたの歌を見つける」 ビル・ジョンソン

「あなたの歌を見つける」 ビル・ジョンソン

2歴代誌20章、エペソ5:18、19、20 旧約聖書の歴史から、私達は新約の時代の雛形、パターンを見ることが出来ます。それは、神が地上で人々とどのように働かれるか、動かれるかということです。神は主権を持ち、御心を行われるかたです、しかし同時に主が選ばれたことは私達信者が祈りによって、神の願いに同意することを通して働かれることです。私達は祈りによって主に同意します。 恐れは日常の生活の中にあり、恐れを体験すること自体は普通ですが、恐れを握って、恐れによって導かれる事が私達の問題になります。ヨットは正面から吹いてくる風を帆の向きを変える事で、前に進む為の動力としますが、私達の態度も恐れがある時、その解決の為に主に向かう、主を求める選択にするのです。それは主を求める事であり、打ち破りを求めるだけでなく、主の御心を求める事です。プレッシャーから逃れる為に打ち破りを求めますが、でもそこで主の御心を求めるべきです。 ヨシャパテがユダの王だった時に、強い敵が攻め寄せ、彼は恐れ、ユダの全集団を集め、主を見上げ、主を求めました。そして神ご自身の民との歴史を祈りで現し、証しを用いて賛美していた時に、預言者が立ち上がり、新しい神の言葉が解き放たれ、彼らは賛美をささげ、その賛美により主が伏兵を備え勝利を体験しました。私達が主を経験し、感謝する時に、歌は自然なものです。エペソの5:19にありますが、霊の歌とは自発的にその時に心から出てくる歌です。賛美して、感謝を捧げる時に主は私達に歌を与えてくださいます。録音する為でもなく、上手い下手でもなく神は私達の歌を聴き、それに答え、伏兵を送られます。大変な戦いで歌う気分ではないという人こそ選択して歌ってください、その事で賛美して歌う気持ちが出てきます。

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「世界を変えるもの達が生み出される文化」クリス・バロトン

「世界を変えるもの達が生み出される文化」クリス・バロトン

箴言6:20〜22、1テモテ4:8〜16  先日、ベテル教会のメディアチームが私と妻の写真を撮りに来ました、新しいブログの為でしたが、その時に不思議なことが起こりました。私と妻は朝から写真撮影の為に心が重かったのです。それは自分達が太っていて、写真写りが良くない事を分かっていたからです。しかし3人のカメラマン達は私達を始終「素敵」「凄い」「モデルになったら」と私達に語りながら写真を撮り、その写真を撮りながら「この写真素晴らしいね」と私達に、私達がどんなに美しく、素晴らしく、写真が素敵かを語るのです、しばらくして自分の固い心が溶ける事を感じ、次の日に起きた時には自分の姿を鏡で見て、「自分は素晴らしい」と思ったのです。 バルナバは励ましの人でした、サウルを育て、マルコを育てました。バルナバがサウロをパウロに育て、そのパウロが新約聖書の13の書簡を書きました。バルナバのように「神が見る視野」で私達を見、信じて、それを語ってくれる人々と一緒にいる事が私達に大きな影響を与えます。パウロが、テモテに書いた手紙では「若くても軽んじられてはならない、あなたの進歩を周りの人にみえるように熱心に働きなさい」とあります。テモテは、将来の姿を預言によって見せられたので、そこに到達する為にパウロはそのように励まし、彼の中の偉大さが成長していくようにアカウンタビリティーを 持っていました。 ソロモン王は母バテシバと父ダビデに彼に与えられていた預言にそって訓練され、育てられました。エステルにはモルデカイがいました。サウルとマルコにはバルナバがいました。彼らは世界を変える人々を育てたのです。あなたも、誰かのバルナバになりましょう。あなたのバルナバは誰ですか? 

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「信頼することの力」ビル・ジョンソン

「信頼することの力」ビル・ジョンソン

箴言3:5〜12  箴言の3章5〜12は私が子供の頃に祖母がいつも暗唱していた聖句なので、早い時から私の考え方の核になったのですが、今日はここから話したいとおもいます。5節、心でつかんだ事柄の方が思いの中にある事より影響があります。思い、知性を過小評価するのではないのですが、心にある事の影響は大きいです。あなたが自分で神の事を全て説明できるならそれはあなたの思いの中の神であり、本当の神ではないのです。いつも人生に「理解しきれない、わからない」神の事柄がある事によって私たちは信頼をするのです、信仰で歩むのです。 「自分の悟り」という事は、聖書箇所を使って、自分の意見を語る事であり、キリストの福音から外れる事もあるのです。たとえば、イエスはヨハネの福音書でぶどうの木、枝、実がならない枝は切り落とす、それは結果として実がなる為ですが、人々は神の言葉から自分自身の定義を作り、真理から離れてしまうのです。イエスは十字架で死んだのは私たちが罪から自由になる為です。だから2000年前に赦されたから、罪を犯して良いのではありません。そのような枝は剪定されるべきです。 6節、認めるという言葉は「体験、相互交換」的に知る事です。情報を本で読んで認識するというような意味ではありません。あなたが人生のどの領域においても 神を体験し、あなたの教師として現れていただく為です。 7節 主を恐れる事をある人は旧約の時代のものと解釈しますが、1ペテロなどにあります。そして神を恐れる事は、私達を神に近づけ、悪から離れ、それは 私たちの健康ををもたらすのです。体が弱い時に、病原菌などに触れないようにする事が癒す事になるように、私達も癒しが必要な時に、それに対して反対するような 情報や物事に自分を晒さない事は健康、また奇跡をプロセスでいただく事に導きます。 8節 箴言から健康に関する事を探してみてください。多くの事を見つける事ができます。 9節 初物を捧げる事は、人生のスタイルです。豊かさを神に期待するので、一番始めの収穫を主に捧げる。文字どうり神を一番にすることの実践です。 10節 私達が豊かにされることは、神がくださった計画と目的を達成できる為である。経済や資材がなくては助けること世代に影響を与えることはできない。 11、12節 父は子供を愛しているから叱る。聖書的なしつけは子供の益の為にされるべきこと。  

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