投稿者: Onfire Japan

「全ての状況の中の希望」ビル・ジョンソン

ゼカリヤ9:12〜14、17。10:1、7  以前にも話をしましたが、神様は「回復の主」であるので、回復をされる方です。敵が悪の為に行なう事を神は良い事に変える事ができるのですから、信者が聖書的に考える思考を持って、考えるならどのような状況でも、恐れて引き下がるのではなく反対に「これは2倍に受けるチャンスが来た」と問題や困難の中を通る事が出来るのです。私達は時間の中にいますが、神様は時間の外にいて、すでに全ての事を完了された所から私達に接してくれるのです。ですから、どんな問題、困難であっても、神様によって、既に解決や答えが準備されていない事柄は、私達の人生にやってくる事がないのです。 これは、希望です。あなたがある状況や課題をみてそこに希望がない時には、嘘によって影響されている視野によってあなたがそれを見ているのです。 祈りの答えを待つ時にも、沢山祈ったけど、答えがないと思うなら、「神様が私に何を話したいのか」を聞く事を実践してください、主の声に親しくなりましょう。また、自分の大きな、究極的な願いを神様が答えてくれる事によって、神様を試みる事を無意識に私達がしているのを知っていますか?しかし、大きな祈りの答えは「私達が答え、祝福をもらった時にそれによって破壊されないように、それに十分な器に成長する過程」も共に、小さな答えでくるのです。 ゼカリヤ10:7、エフライムの意味は「繁栄、多く実をならせる、勢い」という意味がありますが、その後の「勇士」からこれは特に兄弟達に語りたいのです。男性の中の男性が窒息しそうな主の喜び、臨在を外からの影響によって受けて、まるでワインで酔っているように喜ぶ時に、次の世代の模範となり、子供達、次の世代までが収穫され、主を喜ぶのです。 10:3ではユダを主が訪れ、彼らを戦場の軍馬のようにされるとあります。軍馬は戦場で恐れる事なく、忠実で、持ち主に益を与える事ができます。そのように、ユダ、賛美をする者達は、主が訪れる時に、関係の中から溢れでる賛美を捧げる、集中を切らさない、戦う事ができる者とされます。 

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「神様の心は回復する事」ビル・ジョンソン

ハガイ2;9、ヨブ記42:10  神様は「回復」をされる神であり、これはご自身の「人格」であり、終わりの日に知られなければならないものです。神様が約束しているのは「神の良さが終わりの日には地上に神を畏れる事」がもたらされる。ということです。神の「良さ」「回復」はまるでスキャンダルのように、あってはならないような、ありえないような「善意」があり、パウロが「めぐみが溢れる為に罪を犯すべきでしょうか?そうではない」 と言っています。神の回復というのは、最初よりももっと良いものとされるのです。 たとえば、ヨセフの人生もみてください、彼は兄弟達に奴隷として売り飛ばされ、嘘の情報で捕まり、牢獄に入れられ、しかし結果的にはエジプトで2番目の地位になり、治めました。かれが自分でそれを達成しようとしたならば、もっと時間がかかっても出来なかったかもしれませんが、ヨセフの人生は「神の贖い、回復」の人生です。 ハガイ書にあるのは「のちの家の栄光は今よりも大きくなる」事です。これは神殿の事を語っていますが、究極的な最後の神殿は「私たち信者」なのです。私たちが新生するのは最初のターゲットで、それはキリストが私のうちに内住されるという神様の計画の成就の為の為です。 ヨブは人生から全て取られた時、数名の助言をする友人が来て、ひどい事を長時間語り、裁き、間違った裁きをヨブにもたらし、苦難をヨブにもたらしました。しかし、最後に主が現れ、助言者友人たちをしかり、ヨブにささげものを持ってきて、ヨブに祈ってもらうなら私はそれを聞こうと言われました。神はヨブの人生を回復しますが、その過程で、ヨブをひどく苦しめた友人たちを赦し、祈る事を要求しました。赦しは神の回復を注ぐ場所を作りました。祈った後、神様はヨブの持ち物を2倍に増されました。回復されました。

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「天国の本質は前進すること」ダニー・シルク

出エジプト 23:28 〜30  1歴代誌 4:10 士師記13:18  今日皆さんに話したいことは「ヤベツの祈り」のところで要約できるようなことです。ビルジョンソンはこう言います「自分が祝福され、繁栄することを求めないことは自己中心である。なぜならあなたの繁栄や祝福はあなたの周りの人々や状況に対して影響を与えるものだからです」 。出エジプト23章では神は民に「あなたの前に熊蜂(超自然な力)を送り、あなたの前から敵を追い出そう。しかし一歩一歩であり、一度に全ての敵を追い出してもあなたにはまだ、私があなたに与えている相続地すべてを所有し、満たすことができないからだ。」と語っています。私達の宣言は神様が作ってくれた、実をならせ、所有できる場所に対して前進すること、一歩進むこと、反対勢力があるところでも諦めず、夢をみて、戦うのです。そして、私達が前進することを選ぶなら、葛藤し、成長することが要求されます。でも、神様はその一歩を進める場所を下さるのです。 私が若い時には、自分がその時に所有できる境界線を越えて高級車を買って、6ヶ月しか所有できず、しかも12年でローン返済しなくてはならなかったのです。痛いレッスンでしたが、神様がその時にくれていた、所有できる境界線を越えて、一歩ずつ前進する事ができなかった愚かさの故でした。神様は偉大な方です、非常に大きなものを私達一人一人に与えているのです、あなたの最も大胆だと思える夢ですら、神様の前には小さいものです。 神様を人は制限し、箱に詰めてしまう傾向がありますが、イスラエルや、マノアは主の使いに「あなたの名前はなんですか」と聞きますが、主は「不思議である」と答え、その「名前」の意味は「制限、境界線」というヘブル語の意味もあります、私たちは名前をつけることにより、大きさを変え、境界線を引き、制限をするのですが、神様はの統治は止まることがない、不可能な事は何もないお方なのです。

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「愛 対 恐れ」ビル・ジョンソン

イザヤ51:12〜13、54:14。1ヨハネ4:18〜21  私達の人生に非常に大きく影響する視野、フィルターのようなものが2つあります。 それは、「愛」「恐れ」です。 「愛」のフィルターのある人は試練の中でも神様の良さを見つけ、良い知らせの中を歩む事ができます。しかし「恐れ」のフィルターがある人は、いつでも心配、恐れ、焦りにつながってしまうでしょう。 神は何度も「恐れてはならない」と聖書の中で命じています、これは命令です。感謝です、神が命じているなら、それは私達ができない事ではなく、神の恵みによってその中を歩む事が出来る事なのです。ギデオンの軍隊の事を考えてください。神は軍隊で恐れている者を返し、少ない人数で戦わせました。そのように神があなたを戦いの中に導くなら、すでにあなたは戦いの準備ができているのです。恵みがあるのです。  人が敵の嘘に同意して、受け入れた時に敵は力を増大します。ですから、普通に考えて、心配しそうな状況があったり、恐れの感情がある事は罪ではないのですが、その嘘を信じる事、同意する事は罪ですから、私達は同意しない選択をするべきですし、これは選択できるのです。 イザヤ51章では「わたしがあなたをなぐさめるのに、なぜあなたは人をおそれるのか」と主は言います。主はどんな方でしょうか?主が共におられ、慰めてくださるのです。主は信頼に価する方ですし、信者は御人格を知り、主ご自身が与えてくれた約束、御言葉で自分の果たすべき責任、それは、御言葉の真理によって自分がしっかりと真理にとどまる事です。私は御言葉をカードにし、コンピューターにいれ、宣言し、黙想し、自分が受け取った約束を忘れないように働きます。また、54:14にあるように、「虐げ」とは「圧迫」であり、それは人間の思いから、肉の罪から派生し、そこに悪霊がやってきて、足がかりを作るのです。私達が「恐れない」ならば、「圧迫ー霊の領域から暗い雲がやってくる事」は近づきません。  1ヨハネの「全き愛」は、ただ神からの愛を心に受けるのではなく、その愛をもって仕える事で「全き愛とされる」のです。見えない領域での神との体験は、見えるように表せれる必要があるのです。

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「陶器師と粘土」エリック・ジョンソン

2コリント5;15〜17 ガラテヤ5:1  祈りによって私は自分の間違った神学に気がつかされるのですが、皆さんはどうですか?今まで「神様 私の人生のあなたの御心はなんですか」と祈った事はありますか?そうです、それです。 2コリ5:15を見てください、あなたは既に「自分」ではなく「キリスト」の為に生きる者とされたのです。ですから、あなたの人生は「あなた」の為ではなく、主イエスの為に生きる事が神様の御心です。これは、自分の肉との葛藤だけではなく、特にアメリカや欧米の「自分中心」の文化においては、非常に難しいチャレンジです。自分中心である事が日常であり、日々語ってくる「自分が何をするか」が大事という文化の声に対して、逆行することです。 具体的には「肉によって、人間の基準によって自分の事をも、人の事をも見ない」事です、それは「あなたの中にある栄光の望みであるキリスト」の事ですが、人々をあなたの中にいるキリストを通して見る事であり、相手にキリストがいる事を見る事です。なぜなら「キリストの中」にあるのですから。全てが新しくなった人であるなら、奴隷から自由人にされたのです。ですから、自由にされた戦いの後の、自由であり続ける戦いにも勝利するのです。 私達は「神が陶器師であり、私は粘土」と言いますが、陶器師の仕事は激しい、力仕事です。粘土はまず、練られ、水を加えられ、高速で回るろくろに乗せられます。そして、周りが見えないような早さで、造形され、そして火に入れられます。火で焼かれていると感じるなら、その状況から逃れたいと思うなら、まず、文句を言う事を止めましょう。私達の人生も、火の中で「形を保ち続けられない」ならば、もう一度同じ工程を神様は歩ませるでしょう。あなたが同じような葛藤を繰り返すなら、その事を覚えてください。自分がこの工程を通る事は嬉しく無いですが、キリストの中にあるので、あなたの中にキリストが形造られる工程があるのです。それが神様の働きです。

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「深みが深みを呼ぶ」ビル・ジョンソン

創世記7:11 詩篇84:6  神様は聖書の中で「自然の領域が先、次が霊の領域」である事を教えています。また例えを用いて語られますが、雨はなんでしょうか?聖霊の注ぎです。 創世記7:11に「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」とあります。これは、ノアの洪水のところですが、旧約の視野では裁き、滅亡でした。しかし、新約の視野で見ていると「回復、再建」といえるでしょう。英語の聖書では「巨大な水の深み、淵」とあるので、この水は私達の心の深い所をも指し示しています。私達信者が新生した時に神の事に対しての情熱をもって生まれてきますが、心の奥がその情熱、求める心、必要を見て神がそこで働く事ができる事を信じるゆえに、心が砕かれ、神を呼び求める時に、すでに天において神が行っている事を地に注がれるのです。 神様は必要に答えられますが、必要自体が神様の働きを解き放つなら、最も貧しい国は明日にも、もっとも豊かになるでしょう。必要がある事自体が神を惹きつけるのではなく、必要を見た信者の信仰に神様は引き寄せられるのです。祈りと信仰の行いのコンビネーションが必要です。ノアの時代に洪水の水が地上を覆った事を新約の視野で見るなら、それは主の栄光、御霊の注ぎが地上を覆うことであると信じます。ですから、主はそのような注ぐ事を与える事ができる器の人々を、求めています。詩篇84:6から見る事ができる事は、私達が涙の谷を人生で歩む時に、それは「砕かれた心」を持つ事になり、そこで賛美と感謝を捧げる時に、それは「泉」を湧き出させ、リフレッシュを与え、天からの御霊の注ぎによって水たまりができるほどになるのです。失望や、落胆の中でも主に感謝と賛美をささげましょう。それは結果的に私達の環境を変える事になります。私達の深みが砕かれ、現れる時、主が天からの雨を、御霊を注いでそこに答えてくれるのです。

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「宣教と祝福」ビル・ジョンソン

2コリント9:6〜11、ピリピ4;10〜19、ホセア10:12  ベテル教会は、しばしば「祝福を受けたい人の集まり」と嘲笑されましたが、私の態度は「それのどこに問題があるのですが?」というものです。なぜならば、私達はもらった物を全て与えるからです。私達が祝福を受けることはそれを与える為です。2コリ9章、ピリピ4章これらは2つとも「祝福と繁栄」に関する約束であり、表面的には「個人的な繁栄」の事が書かれています。神は私達を繁栄させ、祝福する事を願っています。2コリ6章には、その為に「全て」に対して「常に」「あらゆる」恵みを溢れるばかりに与えます。神は豊かに与える方です。無駄はしませんが、豪華に豊かに与えるのが神様の本質です。10節にあるように「食べるパン」は私達を保ち、「蒔く種」は私達が投資する、与える為です。義の実とは、私達がキリストの内に置かれ、神の義とされましたが、その義なる行いをする事によって「義の実」は現れます。 ピリピ4章では、パウロはピリピの人々から支えられて、テサロニケで奉仕していたのがわかりますが、この「支え、支援」は「神が喜んで受けてくださる供物」であり、自然の領域では「物や経済をパウロに与える」ですが、神の御国の世界観では「神が喜んで受ける捧げ物」になり、2コリにあるように「惜しみなく与え、神への感謝になる」となるのです。コリントでは興味深い事にパウロはテントメーカーとして市場で働きました、リバイバルが集会の講壇から起こっていたのではなく、市場で人にキリストを現す事から始まっていたからです。 私達の祝福と宣教には繋がりがあります。「豊かに与える事」は私達の打ち破りに関係しているのです。私は時に「数年葛藤しているのです」といってくる人に「豊かに与えるべきかもしれないですね」と励まします。また、信者が受ける事ができる、神からの満たしの資源は、私達の信仰や、仕事の状況、住居地などに関係せず、それらは「キリストイエスにあるご自身の栄光の富」から来るのです。

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「永遠はすぐ先にある」エリック・ジョンソン

2コリント3:16〜5:13  「自分はなぜ存在するのか」「私はまだ到達するべき地点に到達していない」という思いは、多くの信者、未信者の中にあるものです。今日は、この思い、疑問に対して、2コリントでパウロが語った所から説明できると思います。 「人が主にむくなら、そのおおいが取り除かれる」とあります。私達は、主を見上げた時に、主のように、また主の内に変えられていきます。栄光から栄光に変えられ、信者であるならこの一方通行だけになります。 それは主の働きです。「土の器」とはあなたの体です。私達は「土の器」であり、計り知れない宝、キリストを受け取っています。 「地上の幕屋」と「天にある神の造られた建物」とあります。私達が「到達する所にまだついていない」と思うことは、この幕屋を脱ぎ、天からの住まいを着たいと思っているのです。あなたは、主を見上げ、壮大で偉大なものを見たので、この世では満足しないのが普通になったのです。 あなたは異邦人であり、外交官です。外交官は、所属している国や地域の影響を配置された所で増加するのが役割です。私達の教会の文化で「天の御国を今ここに、そしてこれからもやってくる」として働きますが、永遠の事を考える事を忘れてはなりません。永遠はあなたのすぐ先にあるのです。70、80、90年生きること、長いと思いますが_?でも永遠の事を思うと、ほんの一瞬です。 「私達の念願とする所は、主に喜ばれることです」とありますが、あなたの地上での働きは主を喜ばせる為のものです。それは私達は裁きの日に主の前で行いによって報いを受けるからですキリストの愛が私達を取り囲んでいる」のは、素晴らしいことです。そして、全てがキリストから始まり、キリストを通し、キリストの所に帰るのです。ですから、あなたの分子レベル組織の存在であってもイエスによってすでにしっかりと握られています。それがあなたの存在の理由です。

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「シャカイナはあなたの役割」ポール・マンワリング

ポール・マンワリング師  出エジプト40:34.35 イザヤ61:3  シャカイナとは、「栄光の雲」の事であると以前は思っていましたが、そうではありませんでした。シャカイナとは ユダヤ人教師が使い始めた言葉で2つの意味を現します。それは「住まわれる神」「住まわれる神の住む所」です。 神は園に住み、神はモーセに幕屋を作らせ、そこに住み。ダビデが神殿を建設する願いを持った時に、その息子のソロモンに作らせ、そこに住み、イエスが地に来られ、イエスの体を持って住み、聖霊によって 今 私達が神殿にされました。 神は私達を栄光の為に創造され、私達にはモーセの顔にあった栄光より偉大な栄光があるのです。それは私達のうちにあるキリストです。 ソロモンの建設した神殿は60兆円位の建設費だと思われます。しかし、イエスはその神殿に対して「この神殿が土台まで倒されるが、私は新しい神殿を3日で建てよう」と言われました。 それはご自身の体の事を指して言われ、死なれ、葬られ、3日の後によみがえりました。そして、それは私達、数多くの「神殿」がこの地上を神の知識、栄光、シャカイナで満たすためでした。 神はご自身の住む所として、エデンの園、幕屋、神殿を準備し、整えました。そして、満たされました。同じようにイエスもあなたを聖別し、清め、整え、今聖霊様があなたを満たしています。 あなたの体は聖霊の宮です。どれだけの価値があるのでしょう。 シャカイナ、それは「神の栄光」です、これは私達のアイデンティティーではありません。私が栄光であるというならば不敬です。しかす、私達は栄光を与えられ、栄光、シャカイナを「運ぶ者」であり、これは私達の使命、役割です。 それは、あなたの生活のどこにでも、あなたが神を現し、反映している時にあることです。あなたが、人を癒すなら癒し主である神の栄光を現し、教師、母親、ビジネスマン、なんであっても神の御性質を現している時に神はあなたを見て「ここにシャカイナ」がある」と言って、喜ばれるのです。

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「後のものが先になる」ビル・ジョンソン

マタイ19;20、20:1〜16 ヤコブ3:16、17  私達がイエス様と共にいる時に、心は主からの夢や、使命、偉大な事をしたい願いを受け、それらが沸き立ってきます。弟子達は漁師でしたが、ある日急に世界を変える者になる!となったのではなく、イエス様と過ごした時間のなかで変化しました。ヨハネとヤコブは炎を天から落として、自分達を通らせない村を滅ぼしましょうかと言って、神と共にあり、偉大な事が出来る、夢見る事を望む事という正しい根から、間違った実をならせてしまいました。もちろんイエス様はその枝を刈り込みました。神の願い、使命を行う願い、それは偉大な事を達成する事を夢見る事であり、正しい根が生えていましたが、私達は間違った実をならせる事があるのです。「刈り込み」はイエス様の栄光を良く現せるようにとの神様からの「訓練」であり、「罰」ではありません。正式な子供としての特権です。 「後の者が先になり、先の者が後になる」という箇所がありますが、以前私はこの箇所の事は、「神様はへりくだった者を高く上げ、昇給させ、自分中心で、自力で昇給しようと思うなら神はその人をへりくだらせる」という事だと思っていましたが、でもそれだけではない事がわかりました。神様が私達に夢や、願いをくれます。私達は祈り、求めていく過程で整えられ、試みられ、祈った事の祝福が実際に私達を破壊してしまわないように主の憐れみによって準備されるのです。妬みや嫉みは、私達が祈って願っている神様の領域の事柄、祝福から私達を遠ざけ、悪霊は働くドアを開きます。時に疑いや、糾弾を「見極める賜物」と言わないでください。他の人があなたが祈り願い、断食していた祈りの答えを受け取り、昇給したら 自分自信の勝利のように喜んでください。あなたが共に喜ぶ事、自分が願っている事を受けた人を祝福する事があなたが答えを受け取る事が出来るにふさわしい者にします。 ですから、後の者が先になり、私達の心に普段は隠れている「妬み」「嫉み」「怒り」がでくる事は、神の憐れみによる訓練ですので、それたは告白し、悔い改め、取り除きます。

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