投稿者: Onfire Japan

「信じる為に見る事」ビル・ジョンソン

「信じる為に見る事」ビル・ジョンソン

創世記 15章、30章 マルコ8章、ヘブル11:24〜26  今日は「見る事」の話しをします。信仰は現実が無い事ではなく、かえってより優れた偉大な現実がある事を信じる事です。目に見える物は一時的であり、目に見えないものは永遠であるとパウロは言っていますが、私達は信仰によって神の全ての領域に対して働く解決、満たしを引き出す事ができるのです。 マルコ8章で弟子達にイエスは「見えないのか?聞こえないのか?覚えていないのか」と聞いていますが、これは「想像する」ことではなくすでに弟子達とパラレルにある、見えない領域にある事を見る様に教えていたのです。ですから、見る事は信仰と深く根を指しています。 ヤコブは家畜がさかりがついた時に、彼らが見える様にまだらに皮をはいだ枝を地面に指し、結果としてぶちやまだらの家畜が増えたと創世記30章で見る事ができます、これは「私は私の目が見ている物を増加して生み出す」という事です。 ヘブル11章「目を離さない」事は、何千の声を拒否して、ただ一つの声、イエスの声を聞く事ですが、これは頑張りや熱心な働きからすることではなく、委ねきった関係からできることです。気楽な関係ではなく、心ではっきりと「私は他の声を拒否し、ただ一つ主の声だけを聞き、価値を置く」事です。

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「小川から大河へ」エリック・ジョンソン

「小川から大河へ」エリック・ジョンソン

ルカ9:46〜50  ダビデとソロモンの時代の違いは何でしょうか?ダビデは戦争で侵略し、人を殺し土地を得ていきましたね。しかしその息子ソロモンは結婚をする事で、平和的に父ダビデが所有した土地の上に街を造り、社会ができました。この2つの時代の大きな意図的な変化を想像できますか?ダビデの時代の文化のエキスパートであった人は、ソロモンの時代には全く異なるやり方をしなければ、いけなかったのです。そのように、ここベテル教会、私達も今ソロモンの季節に既に入っているのです。 教会で使う言葉として「流れ」という言葉がありますね、これは自分達のグループや同じアイデンティティ、文化、土台的な価値をもつ者達をまとめて読んでいると思うのですが、今主が私達を導いている事は、この「流れ、小川」を「大河」に加えていることです。川の事を考えると、川には規則やガイドラインはなく、めちゃくちゃのようでも、「同じ方向に進んで行って、命がある」という事はあるのです。私達「小川」は「大河」に流れ込んで行きます、これは自分達の為ではは無く、私達の王イエスとこの世の為です。ですから、今私達が必要な変化は「同じ文化、土台的価値」を持たない「小川」を問題にせず、自分の持っている文化、土台的価値を握りしめることです。 ルカ9章46〜50では弟子達がエリート主義の考えを持った時にイエスがそれをすぐさま殺している事を見ます。弟子達は自分たちをエリートの様に、一番偉いものとして見たからです。しかし主は「あなたがたに反対しない者はあなたがたの味方です」と言われました。自分の文化や価値が他の人のものより優れていると思うなら、それはしたくなくても私の文化価値間が一番良いのだから、それでやってやろうとする操りになります。それは私達のする事ではありませんね。私と妻はここ数年、私達の教会とは全く異なる様な土台的価値、文化をもった人達と関係を作る事の中にいます。彼らは私達と同じ文化や土台的価値は持っていませんが、それでも私達は関係をたて上げる事を望んでいます。 コネクティブティッシュとは体の中でそれぞれの器官をつなぐ組織を言いますが、私達の間にも知恵やコネクティブティッシュを祈り、求めて行きましょう 

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「一つになる事の力」エリック・ジョンソン

「一つになる事の力」エリック・ジョンソン

ヨハネ17:20〜23、使徒2:1、4:32 時に私達はリバイバルが起こると、大きく成長すると家族、共同体の繋がりがなくなってしまうと思ってしまうかもしれませんが、私はそのようには思いません。「リバイバル」という事と「家族」「共同体」は切り離される物ではなく、これらは一つです。 「一つの心、一つの思い」や、「一つである」事は御国のなかで非常に重要な事です。また、イエスも祈っています。イエスが祈った事は大切な事だということは分かりますね。 使徒4:32を読む度に私の心は探られる感じがします、私達、西洋の文化とは非常にかけ離れているからです。私は自分の物や物を所有する事を楽しみます。趣味の事の中では私はコレクターの性質を持っているようです。ですから、「全ての物を共有し」という箇所はひどく私に迫ってくるので、あまり読むのは好きではないのです。そのような理由で、飛ばして読んでしまう聖書箇所がある人はいますか?私だけではないですよね。 物を所有したり、集める事が好きな私ですが、自分の子供が生まれた時には、その優先順位が全く変ってしまいました。子供が生まれるのと同時に、「この子供が私の人生で非常に重要である」という強い愛が生まれてきました。その愛は「真実な愛」であり、義理や評判を気にするものではありません。 ベテル教会の家族や、皆さんに質問があります。「あなたは人生を誰と生きていますか?」時に、自分は誰もいりません、神様と自分で十分ですという方に会います。虐待など、ある種正当に見える理由を見せるのですが、私達は神のデザインとして人と神と生きる様にされています。あなたは自分の心を開いて、正直に、自分が最も落ち込んでいる時、助けが必要な時に、一緒に歩む人を持って下さい。自分の調子が良い時だけの関係ではありません。 あなたは神を憎む人を愛する事ができますか?ダニエルはネブカネザル王、神を憎む邪悪な王に仕える為に送られました。神を憎む人を、聖書に従順するだけの意味で愛するではなく、心から誠実に愛する事を主が私達を導いてると感じます。その様な愛を持ち歩む事は私達の新しい開拓地だと信じています。これを実践する時に、宗教、権力争いの霊が分かるでしょう。

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「礼拝と臨在」ビル・ジョンソン

「礼拝と臨在」ビル・ジョンソン

2サムエル6章、イザヤ54:1 詩篇84篇  主の臨在を語る時に、実際的にそれは「御顔」と書かれており、空中に現れた物体では無く、主と顔と顔を合わせる、繋がる事です。2サムエルでは、ダビデが神の箱をエルサレムに運ぶ時、大胆に踊り、それを見た妻ミカルが蔑み、彼女は子が無かったと記されています。宗教の霊、権力争いの霊は大胆に捧げる溢れんばかりの礼拝を嫌がり、自分たちの便宜上でコントロールします。 イザヤ54:1では不妊の女が喜びの歌声を叫ぶと、通常の境界線、出産を追い越して、バイパスして豊かに子を持つとあります。賛美は、捧げもの、生け贄を主に捧げる事です、それはあなたが普通にする事や、便利であり、なれているからすることではないのです。聖書は外交的で元気な人は「喜びの叫びを上げ」内向的でシャイな人は心の中でハッピーな思いをもては主は喜ばれるとは教えていないのです。私達は多く「大きな声で叫ぶことは、私の性格ではないから、そういう性格の人にまかせる」としていますが、賛美、生け贄をささげる事は犠牲を払う事です。それはライフスタイルです。主はダビデのような大胆に溢れんばかりに礼拝を捧げる者を見ています。 喜びの叫び、賛美の歌特に私達がまだその「不妊」の状態にある時に、捧げる事は 虫眼鏡で太陽光線を集めて発火できる様に、すでにある主の大きさを自分の不妊の状況の中にももたらし、現れていただく事です。 詩篇84篇では主の偉大さを語る中に「雀が巣をつくり、つばめがひなをいれる巣を祭壇に見つけました」とありますが、これは臨在、祭壇は「生み出す場所」である事を教えています。礼拝や祈りの時に、色々しなければならない雑用を思い出して昔は、イライラしていましたが、今はそれは主が私に語っている事だと分かりました。それは、主の答えであり、臨在は相互的に交わりのある場所なのです。教会は今まで神と共に夢を見る民として歴史的に現れた事は無かったと感じていますが、主は私達を今自由にして神と共に夢を見て、それが私達教会を通して現れる事を望んでいるのです。

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「女性に力を与える神学ーパート2」クリス・バロトン

「女性に力を与える神学ーパート2」クリス・バロトン

1テモテ2:11〜15、箴言6:20、3:31、使徒18:26 女性に力を与える神学パート2になります。南アメリカの教会ネットワークのカンフェレンスに講師として以前言った時に、主が私に夢を通してその教会ネットワークの為に言葉を下さいました。それは、女性の取り扱いに対してでしたが、結果、この教会ネットワークの兄弟達は主の言葉である事を信じず、彼らの神学者と私を話させると決めて、4時間もの議論になりました。 私が信じているのは、信者、教会は結局自分たちの文化背景によって、フィルターして聖書を考え、適応してるのです。なぜならば、使徒の書簡は特定の文化、特定の教会の問題に対して書かれた手紙なので、「文化背景があるからこの様に書かれている」と理解しなければなりません。違う文化、問題に対して書かれた事を一般的、またはすべての事に適応する事はできませんが、私達は2000年もの間、聖書の中の3つの箇所を使って、女性を制限する文化を造ってきたのでは無いでしょうか? 1テモテ2・11〜14は、パウロがギリシャ人の街エペソにいるテモテ、その教会の具体的な問題に関して答えています。ギリシャ神話、女神が街で最も強く、女性が男性を支配する宗教文化から出て、ギリシャ神殿の信仰からキリストの教会に入ってきた特定の女性達を矯正する為です。女性が先に創造された=女性が力がある、権威は女性を通して流れるという信仰に対して、そうではなくアダムが先に造られた、また女性(エバ)が惑わされた様に、その女性達も惑わされていると言っているのです。 ですから、女性一般が惑わされやすいと言っているわけではなく、ある、特定の人達の事を言っているのです。 旧約聖書には女預言者達、女性のさばきつかさ、女王がいます。また、新約聖書からも、街に影響力のある女性リデアがいます、使徒18:26はプリスクラと夫のアクラとあり、雄弁な男性アポロに彼女は教えました。

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「女性に力を与える神学ーパート1 」クリス・バロトン

「女性に力を与える神学ーパート1 」クリス・バロトン

1コリント7:1〜16、1テモテ2:15  以前にも5回シリーズでベテル教会で同じタイトルでメッセージをしました。また、私は「治めるために造られた」という本も書きました、今日はその中から語ります。 皆さんはユダヤ教というものを聞いた事があると思います。私は以前、 それはモーセの律法の教えを守る、旧約聖書の教えだと思っていましたが、執筆中に400時間を費やして導かれた学びによって私が理解した事はユダヤ教は旧約聖書の最後のミカ書と新約の最初マタイの間の400年に、造られてしまったもので、イエスが地上に来られた時にはモーセの律法によってユダヤ人が暮らしたのではなくモーセの律法から派生した「ユダヤ教という宗教」で暮らしていました。例えば、パリサイ人、サドカイ人、は旧約聖書にはどこにも記されておらず、律法もモーセの律法や、レビ記など252の律法から600以上に増え、またその中の100ほどの律法は女性を束縛するものでした。 新約聖書、書簡が書かれた時には「ローマ人」「ギリシャ人」「ユダヤ人」の3つのグループに向けて書かれました。ユダヤ人は最も女性を迫害し、次にローマ人、しかしギリシャ人は女性を崇拝し、女神を造り拝みました。女性を制限する聖句として知られている3つの箇所の手紙の宛先を見ると非常に興味深いのは、3つともギリシャ人の住む、ギリシャ神話、多神教の教えから回心した信者に向けてでした。 また、コリント人への手紙は、書き方として「返信」であり、受け取った手紙の質問をパウロがまず書いて、それに答えるように書かれています。しかし、時には答えだけの様に見える時もあり、理解が難しいのです。 1テモテ2:15「女は子を産む事によって救われます」はエペソにある教会、テモテに書いていますが、エペソの女神は「安産、豊穣の女神」でしたからその女神を礼拝する人達は出産時にエペソにやってきて、出産時に守りをもらう習慣、信仰でした。ですから、パウロは「神との正しい関係があれば、女も出産の時に死ぬ事はない」と言っているのです。天国に行くという意味の「救われる」ではなく、神によって出産を守られる事を語っているのです。これはエペソでは女性達にたいしての回心の困難さでもありました。

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「人々の父となる」ポール・マンワリング

「人々の父となる」ポール・マンワリング

人々の父となるー父達のする31つの事(ルカ15、イザヤ9)  今日のメッセージは「父のする31の事」です。私は息子2人がいて、昨年は彼らの周り人生のハイライトと私の呼ぶような出来事がありました。一つは長男が学校でレミゼラブルを監督し、それを見る事ができた事。彼は私に彼の情熱や賜物を用いて生きていることを見せてくれました。もう一つは次男のルークとブラジルでサッカーのワールドカップを見る為に3週間一緒に旅行したことです。 私は父を15歳の時に癌でなくしました。ですから、「父と息子」の大人としての関係をつくる事はありませんでした。ですから、〜ができたらよかった、これはできなかったと「自分がもっていない」事柄を見て、考えてしまう事が多くありましたが。でも、今はそのような考え方を止めました。反対に「自分がもっている」事がらに焦点をあてて、感謝をするのです。良く地球は「孤児の星」といいますが、これは「父母」がいない、だから「息子娘」もいないということです。マラキの4:6では「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向ける、それは呪いで地が打たれない為」といっていますが、「父と母」がいれば、この全世界の問題が解決すると私は思っています。 父と言っていますが、今日のメッセージは「父=男性」に限られた事ではなく、女性であっても私はあなたに語っています。神はご自身を現すために男性と女性を造られたのです。父は回復します、無条件で愛します、犠牲を払います、妻を愛する事を模範となり、感情を表現する事、弱さを見せる事を模範します。父は「お気に入り」を育てます、安全と自由と導きをあたえます。道徳的な考えを持つために家族で討論する事を教えます。

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「約束の人々」ダニー・シルク

「約束の人々」ダニー・シルク

ヤコブ1:2〜6、出エジプト23:28〜30  神はアブラハムに「空の星の数以上、海の砂の数以上の子孫をあなたはもつ」と約束しました。しかし、それはまだ一人も跡継ぎのいない男性には非常に大きい話しだったでしょう。数千年前に出来事、約束ですが、今現在もこの約束は成就し続けていますね。私達もキリストにあって、アブラハムの子孫であり、またアブラハムは私達にとって信仰の父です。 天の父は良い父であり、私達といつも共にいて、導き、助け、訓練してくれますが父のご人格を誤解していると人生の試練はまるで罰の様に見えるかもしれません。試練の中でもイエスは私達と共に立たれています。良い方です。試練をどのように取り扱うかで、成熟できるのです。全ての人は年を取りますが、全ての人が成熟できるとは限りません。主は私達に約束を与えてくれています。 イスラエルの民が約束の土地を見た時に、そこには人々が住んでいました。しかし神はクマバチを送り、少しづつ敵をご自身が追い払われたのです。それはまるで訓練、準備の様で一年では起こらなかったのです。私達の願いとそれを行う能力が一致するには訓練や成長が必要です。 神の約束(結婚、繁栄、健康)などに戦いが挑まれています。間違った統計や、情報をとうして敵は攻撃して、希望を奪い、信仰をなくさせようとします。しかし 私達はその戦い勝利者イエスが共に人生を歩んでくれる事を覚えながら歩くのです。

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「隠れた所への召し」べニング・レビスチャー

「隠れた所への召し」べニング・レビスチャー

「隠れた所への召し」べニング レビスチャー師 第2列王記9; マタイ6、マタイ22  私達はジーザスカルチャーという働きの為にレディングからサクラメントに移りました。しかし、以前はベテル教会のユースパスターでした。今日は「隠れた所で祈る事の召し」について話します。 私達は物語の一部だけでなく全体を知る必要があります。神の行っている物語り、神の物語もそうです。神が事柄を起こそうとしてる時に、必要としているのは優れた道具や組織ではなく神の召しに対して従う人達です、なぜなら、神の油注ぎは組織や建物に注がれる物ではなく人の上に注がれるからです。 神は勝敗を変える事のできる人々を探し、召し出し、油注ぎ送り出しています。マタイの6章では「隠れた所で祈りなさい」と描いてありますが、2列王記9章で預言者エリシャが若者を呼び、軍隊の長であったエフーに「奥の間に連れて行って油注げ」といったように、奥の間に連れて行かれる事、それは、「自分自身を周りの事と離れさせる」事だと思います。 「召される人は多いが少数の人が選ばれる」事があります。全ての人には召しがありますが、召された後、それに対して「はい」といって手を挙げ、従う人、隠れた部屋に行って祈り、周りと分かたれる事をした人が選ばれるのです。 隠された所での祈りで、神があなたに語り、油注ぎ、あなたはそこから送りだされるのです。

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「偽預言者とは何か?」クリス・バロトン

「偽預言者とは何か?」クリス・バロトン

使徒16:16〜19 1ヨハネ4章 イエスは「偽預言者があなたがたの内にくるか注意しなさい」とわれました。ある教会グループは終末には偽預言者でる、といって預言者をみな偽であると説明します。 そうではなく、終末の注ぎのしるしは預言です、ペンテコステのように。預言は力があります、それは神が創造をしたように「語る事で神と共同創造」をするからです。 それゆえに悪魔は偽預言者を送り、預言が妨げられる様な戦略をもつのです。預言は力があり、神が言葉で創造した様に私たちも預言によってあるものを無いもののように、無いものをあるもののように語るのです。 使徒16章の預言の霊につかれた女性は「正確な言葉」を語りましたが、主の霊ではなく、悪霊に繋がっていた。預言者ピリポやアガパスは 主の霊で預言したけど、完全に正しい預言ではなかった。ミニストリーは「召し、賜物、油注ぎ」で行われ、召しと賜物は変る事はありません。しかし、預言の賜物、預言者が神から離れた時に受ける油注ぎは何でしょうか?悪魔です。ですから、間違った霊から聞いてしまうのです。 偽預言者を判断する時に、2つのポイントがあります。1ヨハネ6章で見れますが、「愛の無い事」と「人からの矯正を受け入れず、単独、独立」している事です。

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