投稿者: Onfire Japan

「聖所の中で生きる」ビル・ジョンソン

「聖所の中で生きる」ビル・ジョンソン

詩篇73篇  宗教の霊は、物事を極端に変えてしまう働きをします、その事から「繁栄」の話しをします。「貧困/持っていない」事が霊性が高い訳ではないです、貧しさは何の助けにもなりません。しかし、中世の暗黒時代にそのような考えができてしまいました。同時に「経済を多く持っている」事が霊性が高い訳でもありません。「お金」は敵が与える事もできるのです。 神が探しているのは、「神を愛しているので、世を愛さずにいる事ができ、その事によって「神の御国を一番に求め、世の人々」に仕ができる人達です。 詩篇73篇は「アサフ」が書きましたが、彼はダビデの世、そしてソロモンの世に移行した時に神の神殿でつかえる者達、彼らを司るリーダーであり、神の栄光の臨在が現実に現れる場所で働き時間を過ごした人でした。 73篇を書いた時、アサフは自分が正しい事をしているのに、悪人達が祝福されているのを見て怒っていました、たしかに主の祭司達は偶像礼拝をし、自分の王国を神の好意だとして建て上げていました。私達も同じような経験があるでしょう。祝福を求めるのは自然な事であり、それを求めないのは愚かさの影響を受けていると思います。 15節で「心にある怒りを口にして話すなら、私が仕えている神の子達を裏切ってしまう」といっています、これはこれは、励ましを語ることの原則が否定的な方に作用しているからです。そして17節では「神の聖所に入った、ついに〜悟った」とありますが、これは「臨在の中、自分のなかの聖霊の臨在だけでなく聖さのなか、礼拝の中で 現れる神の触れる様な栄光、臨在」の なかで「悟った」という事です。目が正しく開かれました。臨在の中だけが、物事を正しく見る事ができる場所であり、臨在の外は「欺かれる、ねじ曲げられる」事が実在するのです。

続きを読む

「2013年 」エリック・ジョンソン

「2013年 」エリック・ジョンソン

イザヤ61章 イザヤ61章が私達の2013年にますます「現れ」てくるように祈り、宣言します。聖書を読む事は素晴らしいです、そして「黙読」とは全く違った力が「声に出して、宣言する」事にある事が判っていると思います。 2013年の始めに、分かち合いたい事が5つありますが、それらは2013年に必要な事だと思います。 ・成長をあまり短時間(毎日、毎週、毎月)から測ろうとしない事。 ・「起こっていない事」に焦点を当てない事。 ・好意や機会が与えられる時に、そこに神が関わっているのか、関わっていないのか。 ・神の御国は「前進」という一方通行です。それは「栄光から栄光へ」であって、もしあなたがイエスを人生の主としてあなたの人生を全く捧げているならば、栄光から栄光へでしかないのです。 新しいレベルの神の事柄の為、「新しいスイング」タイガーウッズはゴルフのスイングを調子のいい時に変える事を表明した時に多くの人は批判しました。それは、「良い成績を出している」から変える必要は無いとおもう。しかし彼は「変える事で、もっと良くなる」と変化をしました。同じ様に神様が私達に「もっと良い成績、結果」を出すために新しいスイング/方法を あなたが良いとおもうなら、それを与えると言われています。 私の評判以上に、「実際の私、私の成熟度」が大きい事を求めていく。木が高い時にはそれに見合った根が育っていないと簡単に嵐で倒れてしまう。私達が大きな好意。機会があるのでますます「中身が評判より大きい」事を求めていきます。 ・神様を信頼する事。 健康にされるために信じて、求めている人々今年はもって、信仰と信頼を持ってあるく時になります。健康であっても、周りに影響を与える為により多くの信頼をしていく時になります。周りに、火の気が無い所 霊的、感情的、環境的に置かれても、あなたはそこで神の炎を起こす事ができますか?それをしましょう。よく食べて、よく眠る事の選択ーよく食べる事(とは、不正によって肥える事)でなく良く眠れる(正しい事をするので心に責めがない)事の選択、よく自分を管理しましょう。信頼する事。

続きを読む

「飢饉の時に」ビル・ジョンソン

「飢饉の時に」ビル・ジョンソン

あかしとメッセージ トレーシ  4人の宣教師達は「なくすならば、保ち、受ける事ができる」事を実践し、一人の魂の価値をしっていました。また、キリストの十字架の光がそれぞれの人生の中の「世の富」を小さくし、遠い所に出て行って偉大な働きをしました。イエスは最初の宣教師です。天の栄光、美しさ、全てを捨て、小さな赤ちゃんとして来られました。しかし、手ぶらで来たのではなく、彼のうちに世界の宝、全て必要な道具は入っていました。 創世記26:1〜13 、ネヘミヤ5章、使徒の働き11:27〜30 今日は「ききんの時にどうするのか」という話しをします。2012年は、ある人には最上の年、ある人には飢饉のような状況だったでしょう。私達が「危機」を通るのは、人生をこの堕落した地上で過ごす時には、逃げる事はできないでしょう。それは、「人生」の一部ですが、その時に私達がどのような選択ができるでしょうか? 創世記26章、イサクは飢饉がある場所に導かれたが「その土地に種をまき、その年に100倍の収穫を見た」とあります、数倍でもすごいのに、100倍の収穫です。伝道者の書にあるのは、「天候を眺める人は決して種をまかない」とあります。外的要因に目を向けるなら、種くことをしないでしょう。 ネヘミヤはききんの中で「街」の再建をしました。教会の建物や、自分の邸宅ではなく、街を再建しました。 使徒の働きではアンテオケの人々は、自分達もききんがあったけれども、自分たちに福音を送ってくれた。ユダの人々に支援をした。ユダ地方がききんではなく、アンテオケもユダも両方がききんであった。「(ユダでききんがあるから(自分たちの所にも)ききんがあるが献金しよう」ということになった。 わたしはききん、人生の難しさを見る時に、そこに神の働くチャンスをみます。イエスが弟子達と船に乗っていて、嵐になり、船が沈みそうになった時、イエスが弟子に起こされ「だまれ、しずまれ」といって嵐を静めた後に「あなたの信仰はどこにあるのか」と言いました。それはイエスが弟子達が嵐を静める事を期待していたからだと思います。イエスは自分がした事を弟子達がする為に一緒にいて、訓練しました。私も、皆さんが行って、行う為に訓練しています。

続きを読む

「あなたの中にあるクリスマス」ビル・ジョンソン

「あなたの中にあるクリスマス」ビル・ジョンソン

ルカ2章1〜7節 、コロサイ1章26、27節 「イエスがなぜ生まれたのか」と言う事を話したいと思います。イエスが生まれて来るまでは、人々は宮に行って神を礼拝し、また裁かれない様に願う事をしてきました、長い間です。しかし、イエスが生まれた事は「究極的な宮」の為の「究極的ないけにえ」となるためです。  あなたがイエスを信じて、イエスを主とした時にあなたが「究極的な宮」となりました。あなたのうちに「見えない神の本質」が満ち満ちている、御子イエスが来られたのです。パウロはこの奥義を啓示された故に、あれだけの多くの試練を通り続けることができたのでしょう。 また、私達が「聖徒」としてのアイデンティティーを持つ事をコロサイ1章から見つけます。「聖徒」ならは 私は祝福を受け、今を生きる事のできる価値観があるでしょう。しかし「罪人」としてのアイデンティティーは 私が今日受ける事ができる祝福は無いし、私が祝福を受ける為にはその為に多くの事を達成しなかればならないとと思ってしまうのです。 「希望の栄光」があなたの内にあるので、あなたが問題に気がつくのです、見てしまうのです。全ての問題に関しての「解決なるイエスキリスト」があなたの内におられるからです。でも、私達の傾向は問題に気がつき、文句を言って、誰かがこの問題の為に何かしてくれなればと語り合うのです。私達がその問題に対して、顔を背けず、問題である事柄に踏み込んでいく事がなければ、栄光の希望イエスがした様に解決を解き放つ事はできないでしょう。 もちろん、最初は何をするか皆わからないでしょう、しかし踏み出して解決の為に動き出すならイエスが「私の去った後に、困難があるけど、聖霊があなたに何を言うのかを教える」といったように聖霊が導きます。ですから、踏み出して、問題に目を向け、イエスの解決を解き放ちましょう。

続きを読む

「神からの多くの好意」ビル・ジョンソン

「神からの多くの好意」ビル・ジョンソン

ルカ書1:28、1歴代誌22:8.9 「神と人からの好意のなかにイエスは成長した」と聖書でみますが、神の子、決して罪を犯さない。イエスが「好意」が増し加えられる事を経験した、またそれを必要であったならば、自分にはどれだけの「好意」が必要なのかと感じます。私は神と人の好意が増加する事が必要です。「好意」とは神との関係によって神がそれぞれに与えますが、神はえこひいきの神ではないので全ての人を同じだけ愛していますが、「好意」はそれぞれ異なる量を与えます。 好意は「神からあなたへの励まし、愛情表現」ですが、それが私達のアイデンティティーではないのです。また、好意は「神があなたを用いあなたの周りの人々を祝福するため」にあたえられます。適切に好意を用いるなら、増加します。 神があなたに好意を与え、周りの人が神を自由に知り、愛する事、またあなたが彼らの人生の神からの計画を解き放っていくためのものです。仕えていくためです。 「多くの好意」は「多くの妨げ」をも、もたらします。ルカ1:28で 天使がマリヤに「あなたは多くの好意をうけました」と言われました。しかし、それでマリヤの婚約者との関係はほぼ破壊されましたが、神が夢でヨセフに語ったので、結婚しました、しかし、マリヤとヨセフの間には婚外子であるイエスがいる状況から始まったおかしな家族でした。 「好意」を受け取る事を否定することはありませんが、受け取って当たり前でも全くありません、好意は「恵み」であって受け取るのに値しない者がうけとることです。「好意」は関係に基づいています。奇跡やしるしを主の御名によって行った者達が「私はお前達をしらない」と言われる箇所が聖書にあります。私たちが神をしること以上に大切なもの、一つだけあります。それは主があなたや私を知る事です。私達が意図的に良い所、悪い所を全て主に明け渡し、憐れみの神に癒して頂く事です。 主と個人的な親密さがない人が奇跡や癒しをするのならは、親しい関係のある私達が奇跡やしるしをしないという言い訳はできないのです。

続きを読む

「神を深く愛する町」ビル・ジョンソン

「神を深く愛する町」ビル・ジョンソン

ヘブル11:11,16; 13:14-16 「要塞」とはなんでしょうか?城壁のように町を守る物で、聖書の時代には町は城壁に囲まれ、城壁が高く厚い程安全でした。私達が「強い要塞」と言う言葉を霊的戦い的要素の言葉として使いますが、その言葉の意味を「人が神以上に信頼するもの」だと信じています。それによって「聖書の真理」がねじ曲げられ、間違った世界観、価値観などが育ってしまいます。箴言では「知恵のある人は悪人の町の城壁を測り、彼らの信頼する物を打ち壊す」とありますが、それが要塞です。それを知る知恵を求めましょう。 ある祈り会の時に神は私に預言的に語られました。「神は街全体が神に所属する町を探し求めている」をと言う事です。そのような町によって広域地域や国に影響を与える事ができます。使徒の働きの2章で、ペンテコステが起こり、聖霊に人々が満たされ、共同体ができて、その中には「足りない者はない」状況でした。聖霊の栄光の臨在で満たされた場所で、人々の傷、葛藤、衝突も癒されたのです。 ヘブル11章ではアブラハムを見ますが、彼は「堅い土台の上に建てられた都を待ち望んだ」とあります。信仰によって完全に安全で健康な町を見ていました。信仰は「見る」のです。その町で人々が成長し、癒され、繁栄する事ができるような町。 私達が地上で今、待っている物は「永遠」ではなく、今の物ですが、求めているのは「後に来る都」です。神が探している町、求めている「全てが神に属する町」を自分達の町にもたらす為には実際的に何をすれば良いのでしょうか。ヘブル13章14〜16節にある様に、賛美と善を行う事、分け与える事(人生を互いに与えて受けるような交わりを意味していますが)「いけにえ」のレベルになるまで行う事です。私達が犠牲を払う事です。全て、いけにえは犠牲を払う事が必要です。 町とは「共同体/コミュニティー」です。個人の家族、ビジネス、ミニストリーの繁栄も良いし、必要です。あなたは神に信頼する事が、実際的であって素晴らしい事であると実践して人々に見せる事ができるのです。しかし、町や市や国の事を考えて下さい。祈りの言葉としてあなた方の中に種としてこれを植えてください。神は「全てが神に所属する町」を通して大きなドミノだおしのような影響を国に与える事を願っています。

続きを読む

「政治的な状況を変化させる」ビル・ジョンソン

「政治的な状況を変化させる」ビル・ジョンソン

詩篇112篇 箴言13章23節 イザヤ書58章10節 箴言11章 アメリカでは選挙があり、色々個人的に深く心配していますが、今この時に実践するべきな具体的な教えを詩篇122篇から話します。「繁栄と富がある時にも彼の義は永遠に堅く立つ」とありますが、今まで教会はこの部分は未熟であったとおもいます。112篇では義人に戦いや反対勢力が迫ってくる時に、どのようにするなら義人が勝利するのかと書かれていますが。「彼は貧しい人々に惜しむ事無く与えた」とあり、それは122節の中で唯一「実践すべき方法」が戦略的に書かれているのです。 「直ぐな人の為に光を闇の中に輝かせる」のためには「暗闇」にいる事が必要です。ベテル教会の召しは「システム(この世、暗闇」に出て行って、仕える者になることで神の国をもたらす事です。 「その人(義人)は悪い知らせを恐れない」のは私の義、神の前での正しさは「キリストの内にあるもの」であり、そこには守りや交わりがあります。ですから、「悪い知らせ」のリアクションのなかに私は歩きません。箴言の12:23では「貧しい者の大地の下に富みがあるが、不義によって彼らはそれらを得られない」とありますが、神の心は貧しい者達が神がすでに創造された富、リソースを用いる事ができる様になる事に神の民が立ち上がり「声の無い者の代わりに語る」事だと信じます。 イザヤ書58章の10節には「飢えた者に心を配るなら」とありますが、経済を捧げる事だけではなく、心を配る事です。皆さんが多くを与える事を既にして下さっています、しかしあなたが自分の事を貧しいと思っているとしても、ほんの少しだけしかないと信じていても、何かはできますね。自分が与えられている特権を持っていない人々に何かしてください、それによってこの町、州、国の上にある霊的な状況を打ち破る事をしていきましょう。箴言11章では「穀物を売るものに祝福がある」とあります。ユダヤの文化では「毎日の生活、仕事」を主に捧げる事で礼拝となる事を強調しますが、私達も仕事を主の為に、主に捧げ、「正当な支払い」を受けるならそれは「豊かに与える事」として主によって認識されるのです。

続きを読む

「その石を捨てなさい」エリック・ジョンソン

「その石を捨てなさい」エリック・ジョンソン

ヨハネ8:1〜12 詩篇671、2節   ダビデ王は戦いの勇者(土地を得、敵を追い出す)、その息子のソロモン王は平和によって治める(同盟により拡大した)者でした。戦いの季節もありますが、今は平和によって御国を拡大する季節だと個人的に確信しています。一つのパラダイムではなく、神のやり方に従う。 御国の文化を外側に与え、影響を与えるにはまず、自分が確信を持ちしっかりと御国に根を下ろす事です。毎日の生活で、闇の国の文化や不信仰や疑いと神の御国の文化の領域にそれぞれの足を置いている状況に直面しますが、不信仰や疑いからでて、神の御国に歩き出す事を私達は助け励ます役割があります。 イエスは姦淫の女が彼の前に連れて来られた時、一つの大きな変化をもたらしました。モーセの律法によれば姦淫の罪を犯した者は石を投げられて殺されるべきでした。 しかし、イエスは「罪の無い者から石を投げなさい」と命じ、だれもそこにいなくなった。それは人々を「裁く責任」から解放しました。パリサイ人は「私が裁く」であるが、イエスの選択は「私は覆い、守る」でした。 私達は「裁く事や批判する事」で知られ、好意を頂いてない場所があります。でも私達がそこに「羊飼いとして」いく事が、守り助ける為に憐れみの心を持っていく事を神が求めていると思います。私がテレビなどで見聞きする状況に裁きや批判をします。私達は状況を知りませんが、自分の意見考えで、批判するのです。 しかし、それを止めた時に神様はドアを開き、好意を与え始めて下さった事を感じます。

続きを読む

「喜びに本気になる」ビル・ジョンソン

「喜びに本気になる」ビル・ジョンソン

ネヘミヤ8、9章 ネヘミヤ記は「再建」について書かれていて、神の癒しと回復が預言的に書かれている素晴らしい所です。ネヘミヤは王の前にいたが、エルサレムが廃墟となった事を聞き、悲しみ祈っていた。執りなしのいのりの力、インパクトは私達が「彼らの罪」と私達を分けないで、「私達の罪」として悔い改め祈る事にあります。 神の言葉が朗読された時に、あるものは泣き悲しんだとありますが、そこで祭司達は「悲しんではならない、今日はあなたがたの神主の為に聖別された日である」と言いました。私は「聖なる」という言葉と「悲しみ、罪責間、恥、祈り」などが同じパッケージにあると若い頃に思っていました。しかし、ここに恵みがあります。神はそのような方法で民を取り扱うのではなく、「まず、私の喜びを経験しなさい、あなたがたの力を主が喜ばれる」といって上等な肉、甘いワインを食べ、喜びなさい。民全てがそうできる様に、準備ができない人には準備した人の一部をわけるように語ります。そして、1週間宴会をします。そしてそのあと、9章の1、2節でわかるように「先祖の罪を告白する」事を導かれました。1週間の宴会と1日の悔い改めです。 この世では「喜びの感情や状況」がある時に「喜び、喜ぶ行動」をしますが、御国では「喜ぶ事を実践」するので「喜びの感情」がついてきます。私も自分の人生で 馬鹿馬鹿しく思われる様に喜んで、飛び跳ねて踊って主を賛美した事があります、人は「彼の人生は素晴らしくいっているにちがいない」と思ったかもしれませんが、それは自分に取って難しい状況のなかでした。喜びなさい、もういちど言います、喜びなさいと主が言ったので、自分は逃げたい思いや、感情をしっかりと治めて、簡単では ありませんでしたが、喜びました。 素晴らしい喜びに満たされて、おかしくないのに笑ったり、笑いすぎて顔がいたくなった事を覚えていますか?多くの私達があのような経験を主がまた、与えてくれないかと待っていますが、あなたがそれを以前受け取った時に、鍵をもらったのですから、必要なら、もう一度入ることができます。 約束の地に入るのは、占領するためです。所有するのです。

続きを読む

「変貌を遂げる山」ビル・ジョンソン

「変貌を遂げる山」ビル・ジョンソン

マルコ9章 1節では、イエスが神の御国をここでは、今まで語っていた御国の様子にまた一つの説明を加えて語りました。「神の国が力をもって到来している」事です。黙示録を見ても力が解き放たれているのがわかります。力がある時、栄光もあるのです。 モーセとエリヤがイエスの所に現れましたが、モーセは権威、エリヤは力を旧約聖書の時代にひな形として現しています。彼らはイエスが後に達成する計画をイエスに話しに来ていたが、それは十字架での死と甦り、イエスご自身がこの世界の罪、もっとも忌み嫌うべき物そのものになられて、父なる神がその罪を打ったのですが、「罪を打つ」事が父の喜びであるただ一つの理由でした。 その時、御顔が代わり、御衣が白く、稲妻のように光った、それは「異なる」と言う意味の言葉であり、それは「栄光」の中に物事が現れると「様子、現れ」が変わります。この時イエスは、「ある時は人のよう、ある時は神のよう」でした。 「変貌」「変わる」と言う言葉はローマ12章の2節「心の一新によって自分を変えなさい」と同じいみです。これは「変えられた思い」の事です。心が一新すると「光輝き」ますが、それは「反射」ではなく、イエスが太陽の様であって、月の様に反射する輝きでないように、自身が輝く。神の希望をどのような状況でも輝かせる事ができる思い、心が「一新された心」です。神は神の思いをどのような状況に対しても、神の御心であるシャローム、希望、将来や神のご計画を解き放つ事ができる者達を立て上げています。「思い/心」の中に「違う世界、神の御国」を解き放つ事ができる人々です。御国への到来が力を持って行われる事をイエスは弟子達に見せた。見えない物が見える様になって現れる。 エリヤがエリシャに2倍の分け前の外套を残して去った時に、エリシャがもしエリヤから火の戦車によって焦点を奪われたら彼は願った物を受け取れなかったでしょう。 火の戦車はしるしや不思議であるけど、私達にとってもしるしや不思議が人々の関心をイエスからミニストリーや私達に向ける物であってはならないのです。しるしや不思議は人々の心、目が主イエスに向けられるためです。権威があなたを奴隷や束縛から導きだし、力があなたを約束の地に入れるのです。

続きを読む