投稿者: Onfire Japan

「力を受ける場所」ビル・ジョンソン

「力を受ける場所」ビル・ジョンソン

詩篇84篇 イザヤ54章1節 奇跡やしるしを信じるようになって、以前は無かったような葛藤や落胆する事があるでしょう。私達がイエスが私達の「模範」として生きられた事を信じて受け入れて、それを自分たちの人生でも従って行く時に信じていなかった時には経験しなかった落胆があるのです。避けて通れない事ですから、私達は「常に力を受け、励まされる」事を学ぶ事が必要になるのです。 イザヤ54章1節では不毛/不妊(あるべき物がない)の状況にある人が、その状況から神を喜び感謝する事で、臨在を受け取り、その臨在によって超自然的な生産性の中を歩く事が見えます。賛美するのは「答えが来る」からではなく、答えを自分が受け取っても、受けとれなくても関係なく「神が素晴らしい方」であるからであり、「答え」を受け取るために賛美するのではないと思います。 この箇所での賛美は、喜びの歌声を上げて叫べとあり、これは「馬鹿げている様に見える賛美」をしている事です。形だけの物ではないのです。勝利の内を歩み、祝福あふれる時には主を誉めたたえることは簡単です。しかし、苦しみの中にある時にこそ「馬鹿げた多様に見える賛美」を捧げましょう。ビジネス、家族、関係、あなたも「不毛」の場所があるなら、その場所から(まだ、変化が無い時から)主を賛美して下さい。 詩篇84篇は 「その力があなたにあり」とあるように、主の臨在を求める信者達の姿をみます。彼らは臨在の中に常に留まる事で霊だけでなく「体」までもが主を恋い慕いいたむ様に変わったのです。私達が心を開いて主を見上げる時に私達は変えられます。そして「シオンへの大路」がある、巡礼のような主に会いに行く人生をライフスタイルとする信者は「涙の谷」苦しみや落胆がある所でも「いのちの泉のわく所」みのりや成就のある所に変え、そしてそこに「後の雨の祝福」すでにある祝福に引かれて、もっと多くの祝福がくる場所になる事を経験します。信仰は、主への「信頼」であり、賛美は「信頼や信仰」の表現です。

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「祝福の中にあるチャレンジ」ビル・ジョンソン

「祝福の中にあるチャレンジ」ビル・ジョンソン

2歴代誌29章 ヒゼキヤ王はイスラエルの歴史の中でも、非常に大きな「改革者」でした。ダビデ王により、主に仕えた国が、その息子ソロモンによってもたらされた偶像礼拝によって 荒廃している時に国を受け継ぎ、国を改革したのです。興味深いのは、神は全人類を同じだけ愛しているけれども、ダビデはイスラエルの王達の業績を測るような基準として聖書に書かれているし、神ご自身の息子イエスが、「ダビデの子」と永遠に呼ばれる様にしたと言う事です。神の愛は全ての人に同じだけ与えられていますが、「好意」はそれぞれ異なるのです。好意は関係からうけるものです。そして「好意や祝福」は本人の為にではなく、周りの人達のために与えられます。もしそれを自分が受け取って、他の人に与えないならば死海のようになってしまいます、その命はなくなります。ヒゼキヤが国を再建した時に、まず祭壇を回復しました、人の住む町が先ではなく神の住まわれる所、礼拝/臨在を回復して礼拝する事によって、感謝の心と豊かに与える事の回復があり、それによって主が国を繁栄させたのです。ヒゼキヤが主に多大な信仰を持って、敵に対処したので、周りの国々はイスラエルの神を礼拝するためにヒゼキヤ王に捧げものをした。 王は後にそれら全ての宝物を敵のリーダーに見せたが、それは「自分の力を誇示して、自力で繁栄する事に働きかける」をした事であり、それによってイスラエルは敵の狙う国となった。これは「感謝の心」を無くし、プライドがはびこる時におこった。ヒゼキヤが死の宣告をせされ、神のあわれみによって15年延期されたが、その時にイザヤが預言した「裁き」の言葉への応答は「自分の行きている間に平和があればよい」と子孫達の事を繁栄される心を全く失ってしまった。

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「愛のスイッチを切らない」ダニー・シルク

「愛のスイッチを切らない」ダニー・シルク

愛のスイッチを切らない ダニーシルク ヨハネ15;13、14:私はベテル教会で沢山の奇跡、癒しなどの証しを聴きますし、それらは素晴らしい事です。しかし、私が一番嬉しいのは「愛のスイッチを入れたままにして、関係の悪い家族や友人に接した事でとても難しかったけど、でも結果は信じられないほど、素晴らしい変化でした」という証しです。イエスは「友人のために命をすてるなら」あなたがたはわたしの友です、と言っていますね。豊かに与える事は、「どれだけ与えたか」ではなく、私が思う事は「与えた後に何が残るか」でもあるのです。従うと言う事も教会の文化の中で間違って使われてきたと思います、例えば「頭と助け手」であるなら、「女の頭は男、男の頭はキリスト、キリストの頭は三位一体の神」とあり、多くは「頭」がボスであるという捉え方になり、そこから「独裁者」的に治める、ハイアラキー的な支配になっていますが、神の国には「ハイアラキ」は 存在しないのです。「妻よ夫に従いなさい」には「夫はキリストが教会を愛した様に妻を愛しなさい」とあります、それは「妻のために自分が死んで、彼女が生きる」という事です。愛を現す事を「葬式」まで待たないでください。

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「私にあわれみを、あなたにもあわれみを」ビル・ジョンソン

「私にあわれみを、あなたにもあわれみを」ビル・ジョンソン

詩篇111:2 主のみわざは偉大で人々によってたずね求められる。ヨシュアとヨシュアと共にあった長老達がいた時に、イスラエルは力強く栄えた。ヨシュア、長老達が他のリーダーシップが持っていた、一つ他と異なった事は「超自然的な事を経験した」です。自分で、理解できず、コントロールできないようなことを経験する事により、リーダーとして自然に神を愛する人々を導く事ができた。主のみわざを喜ぶ者達は、主のみわざを探し求める。「私は主を求める事に強い願い」に価値を持つ心になる神の働きは「主のみわざ」を喜ぶ者達によって知られる、探される。ある人達は証拠を求めるし、それも癒しの働きでは否定しませんが、自分のする事は「心のまずしいもの」の聖書箇所の様に、心の貧しい者は見て喜ぶので、証拠がなくても信じる人達に私はもっと与える事にしています。

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「自分の必要を認める心に留まる事」ビル・ジョンソン

「自分の必要を認める心に留まる事」ビル・ジョンソン

自分の必要を認める心に留まる事ー ルカ4;18 イエスはナザレの町のシナゴーグで重大なアナウンスをしました。それは「貧しい者に福音を告げ、囚われ人を解放し、盲人の目を開く」というイエスの使命、神が与えたミッションについての事でした。主が語られ、それは遂行されました。 しかし、この時ナザレの町は神が選び、与えた「救い主の働きの始まり」を見る、またその為の場所としての大きな瞬間を受け取る事を失敗しました。それは主の言葉を聞き、「皆がイエスを誉め」「恵みの言葉に驚いた」が不信仰によって、イエスがヨハネの息子である事を知っている事=特別な事である訳が無い/いつもの事であるという霊によって、「啓示」を人間の理論で理解しようとして、素晴らしい神の計画を歩く事ができませんでした。彼らの不信仰によってイエスは大きな働きをする事ができなかったと他の福音書で見る事ができます。「啓示」は人間の理論的な論理的思考によって理解はできず、逆に人間の理論的な論理的思考は啓示(神中心、神からの考え)により従属し、理解されるものです。私達は理解して信じるのではなく、信じるから理解するのです。 「慣れてしまう事/特別な事であるはずが無い霊」は不信仰の中にあります。私達が今も、素晴らしい奇跡や超自然的な事を見ていますが、この霊に影響されると奇跡をランク付けたり、自分の欲しいものだけを受け取るような「飢え乾き」のない、また自分の必要を認めず神様の働きを傍観するような、「もっと下さい」ばかりいってもらったものを、実践する事が無いような人になってしまうでしょう。もっと下さい、とばかり言わないで、何をもらったのかを知るために、良い管理人として実践してください。

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「きよく生きる事の素晴らしさ」ビル・ジョンソン

「きよく生きる事の素晴らしさ」ビル・ジョンソン

エペソ5:25〜27。「キリストの血潮」は土台であり、私達は決してキリストの血潮から卒業する事はありません。キリストの血潮は全ての罪から清めます。では「御言葉」の水の洗いとはなんでしょうか?「汚れ」から清めます、御言葉は「生ける声」から来るものです。清めるとは「聖別」するとゆう意味で「ある所から取り出して」「ある人の為に分けられる」と言う事です。誰のために取り分けられたのか? その光を見る事ができる時に私はその方のように変えられます。日常生活、人生の中で「汚れを受ける」事は避けられません、ですから御言葉によって洗われる事は必須です。「汚れたかんじがする」体験をした時に罪の赦し、清めを願っても、あなたが罪を犯した訳ではないので、血潮によっての取り扱いではなく、「御言葉」の水による洗いをするのです。私は汚れたような経験をしたら主の所に行き、御言葉を読み、神が語るまで読み続けます。ですから、「清く、きれいな状態をもって生きる事を学び立て上げる事」は非常に重要です。

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「文化を形作る祈り」ビル・ジョンソン

「文化を形作る祈り」ビル・ジョンソン

1テモテ2:1〜4は「原因と結果」のような聖書箇所です。「王やリーダー達の為に願い、祈り、執りなし、感謝を捧げる」なら「敬虔と威厳をもち、平和な一生を過ごせるため」そして「すべての人が救われ、真理をしる」為です。王やリーダーは「決断をする人達」ですが、私達が祈らないなら、決断の為に用いられる情報の出所は多くが悪霊の影響を受けている所ですが、私達が祈りによって状況/雰囲気を変えて、執りなしのレベルの祈りによって彼らが「神の視野、神の世界観」を持る情報を彼らが受けとる事ができます。 また祈る時に、人に向かって説教する様に祈るではなく、人のために、その人が「神の価値観」を見る事ができるように祈り、感謝を捧げます。また、リーダーや王が「全ての人が救われ、真理を知り」に入るのです。祈りによって長期的に市や町の土台を掘って、神の影響によってその場所の文化が形作られるような祈りをする事に関しては私達はまだまた足りないです。今まで行って来た「クルセード、路傍伝道」なども良い事ですが、それらのものでは「文化が形作られる」ことはありません。

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「ジャイアントキラーの調査」エリック・ジョンソン

「ジャイアントキラーの調査」エリック・ジョンソン

1サムエル18章 ダビデはゴリアテを殺して、サウル王に仕える者となったが、多くの試練をダビデはくぐり抜けた。 ダビデが戦いで成功を収め、人々に愛されたので、サウル王は嫉妬して、ダビデを殺そうとしてしたが、ダビデは決してサウロ王に手を下さなかった、それは「主に油そそがれた者」が、どのような状況にいても「守り、覆う」と言う事を決めていたからだ。私達も一度は主に油注がれ、偉大に用いられた人が罪に落ちたり、問題を起こしている事を見たり聞いたりしているでしょう、しかし私達はそのような人達を裁きや、批判的な霊を持って応答する事をする資格はありません。私達に与えられているのは、かえって恵みをもって覆い、回復を助ける事でしょう。 ダビデはサウロの王宮から逃走した時、ゴリアテの出身の村に行った、それは「敵の陣地」であるが、ダビデはそこで生き延びた、それだけでなく、400人の勇士達がダビデの逃げていた洞穴にやって来て「あなたが私達のリーダーです」と言ってきた、この400人は社会的にはみ出した者達だったが、後に非常に優れた軍隊となる。 あなたが今いる所が「敵の陣地」だと感じても、そこには立て上げられる事を待っている軍隊がいるし、敵の陣地であなたが生き延びるなら、どこに次にいってもうまくできるでしょう。 神の好意と人の好意、2つは異なるもの。私達は神の好意に目を向けるべき、時に神の好意は私達を「王宮に送り、そこから追い出す」事があるが心配せずに神を求める事。

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「警告から約束へ」ビル・ジョンソン

「警告から約束へ」ビル・ジョンソン

ユダ書1章:ユダ書のような聖書箇所は「しっかりと堅い肉」のような御言葉で、ミルクのような誰もが受け入れやすいような心地よい御言葉とは違う。しかし、「しっかりとした肉の御言葉」は私達への矯正というより、私達が清められるためのもの。神が罪を名を挙げ、リストアップしているが、殺人、姦淫、文句、不平を言うもの、へつらうもの(ごますり)などありますが、なぜ、「不平を言うもの、ごまするもの」がリストにあるのか?それは言葉には非常に大きな力があるからです。また、コラの子というのは 、真理を誤用したため、主の裁きにより、大地が口を開きこの一族が飲み込まれました。 なぜでしょうか?それは反抗的な心で真理を誤って用いたのです。素晴らしい約束は神が私達を「つまずかないように守る事ができ、傷のないものとして、栄光の神の前に立たせる事ができる」です。そしてその約束が成就される為にも神は私達の側の仕事を先に語っています、それは「神の愛のうちに自分自身を保ち」という事です。 神と人の共同作業であるのです。

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