投稿者: Onfire Japan

「これこそ恵みだ」ビル・ジョンソン

「これこそ恵みだ」ビル・ジョンソン

出エジ14:13、コロサイ1 私達の命は「声」の中にあり、律法ではないです。それは、関係であり、その時々によって神様は変化をもたらします。神ご自身の約束を破棄や違反されるのではなく、しかし私達の考えに過激な変化をもたらす事をされます。それは私達が「従う事」を学ぶためです。何かを一つできる様になったと思ったら、それを主は違うやり方で しなさいと私達に求められるようです。関係の為です。恵みは「私達に力を与え、できない事をできる様にする主ご自身の臨在」ですが、最近人々は自分自身の考えで聖書の 恵みの理解を定義しているようですが、反対に私達は聖書によって私達の定義を形作っていただくべきです。

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「飢え乾くギフト」ビル・ジョンソン

「飢え乾くギフト」ビル・ジョンソン

申命記8章3節 詩篇107篇4〜9 「満たされている」事と「飢え乾く」事を同時に得ている事自然界では食べるなら飢え乾く事はないれど、神の国では「食べる事で飢え乾きが増し加えらえる」 「飢え乾き」を感じる事は「霊的に健全」である事のサインである「飢え乾き」を神の視野から見るとそれは「神により頼むこと」を起こすものであり、そこに神は価値を持つ。また、飢え乾きは夢を見るため、現状よりもっと良いものを願うために必要な事であり、飢え乾きによって人は現状や便利さから踏み出して、打ち破りを得る事ができる。神が「豊かさ」に反対するのではない、しかし「豊かになること」で神に信頼や信仰を持てなくなる事を喜んでいない。どれだけのものをもったら、「多すぎる」なのか?神に信頼する事をしなくなったら「多すぎる」になる。

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「鮮烈とは飼いならされない勇敢さである」ダニー・シルク

「鮮烈とは飼いならされない勇敢さである」ダニー・シルク

マタイ 25章 今日は「鮮烈」と言う事について話します。これは「飼いならす事ができない、野生の」と言う意味と「勇敢さ」の意味二つがあります。神が私達に与えてくれた「使命や最終到着地」に到達する為には、色々な戦いや痛みに直面し、その壁を打ち破って、壁の反対側に行く事です。あなたはその為に召されています。 「鮮烈さの中」に生きる時に、リスクを負う事や、痛みがあっても、「鮮烈な情熱」を持っている時に「使命や神からの目的」進む為に、あわれみと愛を持ち続ける事ができます。イエスが言われた「牢獄にいる者を訪ね、病いの者を訪なさい」を実践する時に、私は無力感をかんじます、祈っても、その人が癒されない時に私は無力を感じます。しかし、本当のあわれみとは鮮烈さと愛が合わさったもの。王国のあわれみです。諦める事や、恐れによって止まる事ではないのです。動機は燃える様な愛です。 力強い者は責任がありますが、その責任を受け入れる事によって、「助ける事ができる」「与える事ができる」者になり、被害者マインドセットから解放される。

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「答えが遅れる時に信仰を」ビル・ジョンソン

「答えが遅れる時に信仰を」ビル・ジョンソン

ヨハネ11:6、16、40  ラザロが病気だと知知った時、イエスはすぐにラザロの所に行かず、4日目に甦らせた。「あなた方の為に、あなた方が信じる為には私がその場に居合わせなかった事を喜んでいます」と言われたのは「甦り」を弟子達が証しする為であった。より大きな信仰、奇跡の為であった。「答えが遅れる時」は「素早い答え」より偉大な栄光、目的がある。答えを待つ時「持続する信仰」が作られ、その間に人格や考えが形成されます。主が私達の中に求めているのは「愛」と「信仰」です。 信仰がどれくらいあるのかより、「主の所に行く」信仰を持っている事が重要である。信仰で葛藤する私達を主は罰せず、逆に信仰が成長するために信仰の旅、大きな信仰が必要な状況の中に導かれる。「あなたが、信じるならあなたは神の栄光を見る」である。マルタの様に、正しい神学を知っていても、その故に私達が「今起こる奇跡」を願わない事もある。奇跡を信じていても、主の奇跡のドアには入る事は準備できていなかった。

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「神のムーブメントを保つ」ビル・ジョンソン

「神のムーブメントを保つ」ビル・ジョンソン

ヘブル13:15、16節 神は「祭壇の上の捧げもの」の上に降りて来る。捧げものとは何か「くちびるの果実」と「善を行う事」と「交わり」がありますが、これを絶えず神に捧げる事は「神によろこばれるいけにえ」であり、私達は祭司として炎を祭壇の上に保つ為、祭壇に何かを捧げ続ける事ができます。 「ささげもの」は「犠牲を払う」事であり、選択であり、契約を神と結ぶ事である。時に、「自分の感情」では賛美したくない時にも、私は自分をしたがわせて神の言葉を宣言し、預言を読み、踊り、神を誉めたたえ、打ち破りを得ました。賛美は「捧げもの」なので「犠牲を払う」領域に入る。神の炎が下る為に自分を生きた捧げものとして生きるライフスタイル。

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「全ての領域での癒し」クリス・バロトン

「全ての領域での癒し」クリス・バロトン

ルカ17:12、3ヨハネ1:2 イエスは言葉だけで、病いを癒す事ができた。しかし、その他にも色々な方法で癒した。例えば、ツァラトを病む人に触れる事、これは感情的な癒しをもたらし(たましい)、また「祭司に見せなさい」といって彼らの霊的なルーツを癒した。 3ヨハネでは「たましいに幸いを得ている様に」すべての面で幸いであり、健康であれと言っている。それは「たましい」が私達をすべての幸いー繁栄、祝福に霊と体を導くための器官として創られている事であるが、「たましい/心」は霊的でないと宗教的な考えによって私達教会は長い事「霊」が成長することは学んで来たが「たましい/心/感情」を適切に取り扱う事をして来なかった。それで私達は「たましいの必要」、例えば健全な愛情表現や人々からの励ましなど教会の中で受け取る事ができずに、その他の不健康な所で受け取ろうとしている。霊とたましいと心、全ての領域で欠けた所が無い、それは「ホールネス/完全である」事であり、ソーゾー(sozo)である。

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「天国がくる時」ビル・ジョンソン

マタイ6章:「主の祈り」の中で「あなたの王国が来ます様に」「あなたの御心が天でおこなわれているように地でも行われます様に」と私達は祈りますが、この聖書箇所がギリシャ語の文法で正しければ「あなたの王国が来る!」「あなたの御心が天で行われているように、地でも行う!」と言うように私は言い換える事ができると思います。イエスが「人の子」としてした全ての事は、もし主が「神」としてそれを行ったなら、私自身は傍観者となる事でしょう。 しかし、イエス人としての制限の中で「父との関係の中」で全ての事を行い、イエスご自身の罪が無い状況も私達はイエスを信じる事で受け取ります。だから私は「傍観者」にはなる事はもうできないのです。イエスは普通のクリスチャンの基準です。イエスは祈りが聞かれない時にどうするか?は教えませんでした、聞かれない祈りは無いからです。祈りは人類と神とのフェローシップ、交わり、友情にあっての呼吸であり、会話です。私達は神の心を知り、神の心を動かす祈りをする事ができるのです。 YouTube で見れます: http://www.youtube.com/watch?v=ekpCmKgX3ZY

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「こんな日もあるよね」ダニー・シルク

「こんな日もあるよね」ダニー・シルク

私の息子と妻の経験が絵本になったのですが、その本を読みたいと思います。あらすじは「息子リーバイ」が「むしゃくしゃするような1日」の中で経験した「神様は僕を素敵に創ってくれて、僕の価値は良い事が一杯の日も、最低な1日でも変わらない」ってことなのですが。。こんな日、あなたもありませんか? 1日が1000年にも思えるような、苦難や試練の中にある時に、助けになる事は「自分がコントロールできなくて、苦闘している事柄」に目をむけるのではなく「神が今している事柄」に目を向ける事です。私達の問題は「忘れてしまう事」ですよね、だから教会にきますよね。神様が今してくれている事を3つ覚えて、誰かに話して下さい、それが5つや10になるまで、続けて下さい。そして、自分の周りにいる自分よりもっと多くの葛藤や苦闘の中にあり、助けや愛、励ましが必要な人達を捜して仕えて下さい。 彼らの1日も変えられ、あなたの1日も変えられます。

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「夢が成就するための鍵」ビル・ジョンソン

「夢が成就するための鍵」ビル・ジョンソン

ヨハネ15:15, 16:24 私達は「神と共に働き、創造する」事、同労者としての特権があります。状況に主を招き、御国をもたらします。地上で許可を与えるものは既に天においては許可されているものであるべきで、地上で縛るものは既に天におい縛られているものでるべきなのです。 全ての事は神の許可でおこるのではなく、ある事柄が起こるのは、人間が闇の力との契約に入る事で許可を与えているからです。しかし人はそれを神のせいにして、文句をいうのです。神の夢は人々が夢が成就する事で喜びで満たされる事ですが、私達が神の心を知り、神の夢を自身のものとして行く時に、神が私達の夢をもそのなかで成就される。聖書の人々は「夢を追いかける事」で成就したのではなく、油注ぎに誉れを与える事で夢が成就し、他の人の夢に仕える事で自分の夢が成就するのです。

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「油注ぎを認識する」エリック・ジョンソン

「油注ぎを認識する」エリック・ジョンソン

ヨハネ6章 ヨシュア3章 「油注ぎ」という言葉の意味は「神様の今されている事」という事もでき「油注ぎ」を認識して、取り扱いを選ぶ事が必要です。それは自分の立場が集会の参加者か、リーダー側かでも違ってきます。取り扱いを失敗する恐れによって「神のムーブメント」を過去に私達は止めてしまいましたが、イエスの方法は人々を集めるより、真理をかたり人々の反応がどのようでも、そのままにしておく事でした。 また、油注ぎを見分ける事で「自分がどれだけ関わるのか」も知る事になります。聖書の中の信仰の人々は、疑問を持ったかもしれないけどヨシュア、ダビデ、多くの人達が信仰によって油注ぎに従いました。「油注ぎ」は移動します、ヨシュア記ではイスラエルの民が「主が全てなされる」から「その満たしを受けるため民が動く」事に変わりました。私達は「慣れ」が罠になる事もあり、困難ですが、従う事が必要です。この原則があなたの人生の全分野で有効な事をいのります。

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