投稿者: Onfire Japan

「あなたの人生を変革する」クリス・バロトン

同時通訳:相馬伸子
ローマ12:2、マタイ17:2 、箴言13:20、マルコ4:24、25 

あなたの人生を変えたいと思う人がどれだけいるでしょうか?
あなたは人生を変える事はできませんが、あなたは思い、考えを変える事はできるのです。
そうすれば、神はあなたの人生を変える事ができます。

ローマ12;2の「心の一新によって、自分を変えなさい」とありますが、この「変える」という言葉は、マタイ17:2にある「御姿がかわり」という言葉と同じ言葉です。

「最初に聞いた事が土台であり、フィルターになる」という原則があります、これはある事柄の事を初めて聞いた時、それは土台となり。フィルターになります。
その次に同じ事柄を聞いた時には最初の土台のフィルターを通して見る、考えるという事です。私達が「み言葉の真理」を土台、フィルターにするならば、真理でないものは出す事ができますし、真理が土台となるだけでなく、フィルターの役割も果たすのです。

思いを変えるには、どうするのでしょうか?私は自分の霊で思いにかたります、「わたしの思いは、このような事柄を思い続ける事ができない」とします。
わたしの「思い」はわたしの霊に従うので、私は自分の思いの奴隷ではないのです。

人生を変えたいと思ったら、思いを変える為に、自分の周りの文化を変える事によって、自分の内側の文化を変える事ができます。
箴言13:20でありますが、自分が「こうなりたい」とおもうような、思いが健全な人たちとつながってください。
もちろん、すべての人に対して、私たちは「奉仕」する事ができますが、「奉仕する為につながる人々」と「自分に影響を与える為につながる人々」は異なります。

マルコ4:24でイエスは「聞いている事によく注意しなさい、あなたは人に量ってあげる、その量りで自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」と言いました。聞いている事で自分の基準ができ、それによって自分の所にも聞いている事が増加してやってくるのです。

思いを変える事ができないとおもいますか?
あなたが新生した時に古い人は、死にました。十字架は古い人の為です。死んだ古い人に話しかけたり、よみがえらせたりしないでください。
古い人を「脱いで」あたらしい人を「着る」のです。
真理によって、実際にある葛藤、その葛藤の根は嘘を信じているからだと思いますが、と置き換えてそれを語るのです。

自分で自分の人生を変える事はできませんが、思いを変える事はできます。そうすれば、神様があなたの人生を変革してくれます。

日本語動画:
英語音声:http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/transforming-your-life
英語動画:http://www.bethel.tv/watch/4082/transforming-your-life-sunday-am/2016/07/03

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「王国」ポール・マンワリング

同時通訳:相馬伸子
1サムル16:7、マタイ13:11〜13、

「王国」、「神の国」という言葉について、今日は皆さんの心が引き伸ばされる事を願ってお話しします。
「王国」とは、どこですか?
私はUKで生まれました、女王がいる国です。でも、その王国に生まれる事は、自分の選択ではありませんでした。
もう一つは、選択がある「王国」です、新生する時に「神の国を見る事ができる」とあるように、これは、あなたが新生する時に
王様であるイエスを招待した、お迎えしたことによって、あなたの内側に神の王国がきます。

新しく生まれなければ、「神の国」を見る事ができない、ということは、私達新生した信者が、「見る」事ができるともいえます。
神の王国はとは、私たちがあるルールや、解決方法を問題のあるこの世に持って行き、強制的に上から与える事でもたらせる事ではなく、
神の王国は、私のうちにイエスキリスト、栄光の希望が住まわれる事で、影響を私をとおしてこの世に現れるようなものです。

神の国は「内側で起こる変化」であり、栄光の望み、イエスキリストが現れる事です。人の視野ではなく、神の視野で見て、それを生きる事で影響をしていく事です。

1サムエル16:7でわかるように、人は外側をみるけど、神は心を見ます。私たちの周りの世の中とは、違う視野、違う聞き方を新生した信者は持つ事ができます。
それが、マタイ13:11^13でいわれるように「奥義を知る事が許されている」ので、神の国の奥義を新生した信者は知る事ができるのです。ですから
その事を求めていきましょう。

神の国のライフスタイルは、「探し求める事を続ける」ことでしょう。マタイ13:44〜46であるように、商人は素晴らしい価値の真珠を見つけ、その為に全てを売り払い
畑を買います。神の国は「高価な真珠」ではなく「良い真珠を探している商人のようだ」といっているので、私たちは「良い真珠」をみつけて、これが神の国だと誤解しやすいのですがそうではないのです。
いつも、求めること、探すことがライフスタイルになるように。

あなたが自分の思い、考えで、「神の国」がどれくらいのサイズがあるのかと思っていることが、実際にあなたの信仰で現れます。
それは、いつも成長するべきだと思います。

日本語動画:https://youtu.be/ENZiK-IyAdo
英語動画:http://www.bethel.tv/watch/4089/kingdom-sunday-pm/2016/07/10

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「とりなしの為のポジション」ビル・ジョンソン

2歴代師7:14 

「わたしの名を呼び求めているわたしの民が、自らへりくだり、祈りを捧げ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒そう」

アメリカで、最近いくつもの、神の介入がなくては、自分たちの努力ではどうにもならないことが表面化しています。私たちには、癒しが必要であり、心の傷んでいる、壊れている所に癒しが必要です。

アフリカ系アメリカ人男性に対しての、警官による発泡事件事件や、オーランドでのナイトクラブでのテロリストによる事件、また、警察官を目的にして、1人が5人を射殺した事件もありました。これらは悲劇です。私達が必要なことは、慰めを与え、ともに立つことです。
理由がどうであれ、命が奪われたことは悲しいことです。私たちはそこで、裁きの声を出さずに、慰めたいのです。

政治的な霊は「ピラト」のように、手を洗って、自分はこの問題とは関係ない、と距離を置きます。宗教の霊は「姦淫の女」に石を投げるように、自分が宗教に熱心な事を裁く事によって、見せようとします。私達は「神の御国」のやり方で、進む時です。

とりなしの時に「私たち」「かれら」といって、しまうことは、「裁きの霊」に加担してしまうことが容易になります。
とりなしとは、「ギャップに立つ」こと、「相手の立場にたって祈る」ことであり、相手の立場に立つことは「聞くこと」なしにはできません。
理解や同意できなくても「しること」はできるでしょう。
ネヘミヤは自分の犯していない罪を「わたしの父の家も罪をおかしました」と自分の事として悔い改め、いのりました。
それこそが、「同一化して祈る事」です。

日本語動画:https://youtu.be/T_-txChZPRg
英語動画:http://www.bethel.tv/watch/4088/position-of-intercession-sunday-am/2016/07/10
英語音声:http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/position-of-intercession

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王は王達に与える

詩篇68:19, 今日は「必要が満たされる」事と「豊富にある」事の違いをはなします。 ある方は「繁栄のメッセージ」は良くないと思っているかもしれません、皆さんがどのような意見を持つかという事は自由です。 詩篇の68:19では「ほむべきかな、日々、私達のために重荷をになわれる主」とあります。英語訳では「重荷を担う」が「益をくださる」とあります。 神様は私達に与えたい、益を毎日与える事をすでに決められています。 ある時18ヶ月の間、私はコーヒーを買う事が出来ませんでした。買おうと思っても、誰かほかの人が払ってくれるのです。教会の中のカフェの近くである時人と話ながら、コーヒーの香りが あまりにも良いので、「コーヒーを買ってから、祈り会に行こう」を考えていた所、ある人がコーヒーをもって、こっちに歩いてきて、「コーヒーをなんでだか、買ってしまった、自分はコーヒー飲まないのに」となり、非常に驚きました。豆でもそうでした。でも、その事が始まって数ヶ月後に。自分がとてもイライラし、フラストレーションを感じました、なぜなら、自分には「十分なコーヒー」があったし、キーヒーを自分でかうお金がなかった訳ではないのです。わかった事は、神様は「必要以上に与える、与えたい方」なのだという事です。以前自分は「必要が満たされる事」、マイナスがゼロになる事が「豊富」だと、考えていましたが「豊富」である事はそれ以上です。 王様や王の家族は「必要を聞いて、それを与える」事はしません。全てをもっているので「あなたにたりないものをあげる」という事は失礼なのです。 私達の神様は「王様」であり、私達を「王様達」として見て、そのような人になってほしいと願いっているのです。 私達は「国々を弟子化する」といっても、「豊富」になければ出来ません。 私達が教会の文化として作り上げている事は「他の人が祝福される事を自分の事として喜ぶ」ことです。

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もっと実をならせる為の旅路

「もっと実をならせる為の旅路」エリック・ジョンソン 同時通訳:相馬伸子 エペソ2:10、ピリピ1:6、ガラテア5:22, 23、ヨハネ15章 「実をもっとならせる」ことの話を今日はします。 「あなた」は最高の芸術家である神様の芸術作品で、エペソ2:10ではまるであなたが、ギャラリーの真ん中にスポットライトを浴びて輝く唯一の芸術作品のようだと、言っています。どうですか?励まされてくださいね。 そして、神様が始めたことは、神様が成し遂げてくれます。 ヨハネ15章では「私は枝、主イエスは真のぶどうの木、天の父はまことの農夫」と言っています。イエスは彼が生きていた時の周りの情景、文化や例えを用いて語れます。興味深いです。 イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言っているなら、「偽物」もあるのです。枝は繋がっているところが延長されているようなものですから、もし、あなたが「偽」に繋がっているなら、そのような結果になるでしょう。 ヨハネ15:6で「わたしにとどまっていないなら、投げ捨てられ、燃やされる」とありますが、これはこのメッセージのメインポイントではなく、小さなポイントです。なぜなら、「天の父。真の農夫」の心は「あなたが実をならせ、それが増えること」ですから。もし、あなたがこの箇所を読んでも覚えていることが「投げ捨てられ、燃やされる」なら、間違ったレンズを通して見ているますね。 「取り除き」という言葉は「引き上げる」という意味です。ですから、実がない枝を父は引き上げ、掃除し、実がなるようにしてくれるのです。自分の事を「ぶどう畑」と思いますか?違います、一人一人は「大きなぶどう畑にあるぶどうの枝」なのです。だから、神様はあなたの事を大きな体の一部として見ているのです。だから、時には「刈り込み」があり、それは「この1本の枝を切ったら、あと4本の枝がでる、もっと実がなる」という事にもなりますが、あなたの勝利が周りのみなの勝利であり、誰かの勝利はあなたの勝利なのです。 「自由意志」と「真の農夫」の両方があれば、素晴らしい導きを選ぶ事が出来るので、よく世話をされた、実のなるぶどうの枝になるのですが、「神抜きの自由意志」はコントロールできない、ぐちゃぐちゃのぶどうのつる」になるでしょう。 神様は私達の人生を導きたいのです、それによって前進する時には、何かを手放す事によって昇給したり、御霊の実を実らせるための主の計画の中にはいるのです。 それらは時には私達には、恐れや心配をもたらしますが、神は信頼に値します。 日本語動画:https://youtu.be/rj1EoTlG1Bk 英語動画:http://www.bethel.tv/watch/4045/the-journey-to-bearing-more-fruit-sunday-am/2016/06/05 英語音声:http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/the-journey-to-bearing-more-fruit

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「信仰にはいくつもの見え方があります」エリック・ジョンソン

https://youtu.be/IPOPS6yrqxU ヘブル 11:1、ルカ 17:5  信仰の話をしましょう。 信仰とは、「目に見えないものを確信させる」とありますが、それはどのような事でしょうか?例えば、私の上着でマイクスタンドを隠し、同時に私が人生で一度もマイクスタンドを見た事がなく、知識もなかったとしましょう。しかし、上着をとったら、覆われているものがなくなり、その下にあるマイクスタンドが見え、人生の土台に必要な事として自分の人生に加える事ができます。信仰は「活性化」する事なしに、知ることはできません。信仰は「働かせる」事がひつようなのです。 ルカ書から見える様に、弟子達は多くのしるしや不思議、奇跡を体験し、それを見、行ってきました。 イエス様は弟子達に力と権威を与え、それを良いとされたのか、70人の弟子達をも送りだしました。 弟子達は力と権威を与えられ、癒し、悪霊を追い出し、力を持って働き、驚いた事でしょう。しかし、同時に彼らの人格の未熟な部分も同時に現れ、ついにはイエス様は彼らを叱ります。 人は、一つの事を達成すると、安定や安心を求める性質があります。大変な山を登ったなら、もうそれから先には進まず、自分は前人未到の所にきたからもう安定したい、という「クルーズボタン」を押すのですが、弟子達はそうではなく「私達の信仰を増してください」と願いました。 「自分が知らない事」「もっていないこと」を知らなければ、私達がそれを求めたり。追いかけたりすることはできません。私は以前ランディークラーク師の集会に奉仕をして当時の人生で最も顕著な癒しを見て、自分を通して癒やしも行われました。それは80%の人が癒やしを受けて、「まあまあの出来」と彼は言っていましたが、私にとっては、新しい世界であり、その旅から戻って、ベテル教会で分かちあり、祈りました。でも、1人も癒されなかったのです。私が「他の方の油注ぎの下」にいたので、癒やしが沢山起こったと啓示され、自分はまだその賜物を「活性化」させてないことがわかりました。 そして、「敗北」「恐れ」がやってきて、その時は祈ることに恥ずかしさをかんじました。敗北や、恐れがあっても、止まる許可を与えないで、そこに根を下ろさないでください。神の声が聞こえるまで「主よ、わたしに信仰を増してください」といい続けましょう。そして、自分より大きな信仰の領域を歩んでいる人々、状況にいって、「主よ。わたしに信仰を増してください」と願う事ができる心に覚醒することを励まします。 English Podcast: http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/faith-has-many-faces–2

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人生の歌

「人生の歌」ダニー・シルク Song of Life – Danny Silk ハバクク1:1〜4、2:1〜2、3:1、2 ハバクク書から「人生の歌」を見ていきましょう。 ハバククは「自分の周りにある不義、暴虐」を神様に訴えていますが、あなたはどうでしょうか? あなたのまわりの出来事は、あなたにとって「正しさの基準」を麻痺させるような働きになっていませんか?インターネットやメディアを使って、誰かが、私たちの「正しさ」の基準を麻痺させようとしているのです。世界中の恐ろしい出来事があなたの目の前にやってくる事もネットによって可能です。 何にたいして「心が動かされる」事かはひとそれぞれ違うのですが、あなたはあなたの心が動かされたを「重荷」として受け取ることでいいのです。ハバククはまず最初に「重荷」を「文句」として神にぶつけていますが、それは、祈りです。そしてハバクク3:19には「指揮者のために弦楽器に合わせて」とありますから、祈りに音楽がつけば、それは歌ですね。ですから、「人生の歌」と私は呼んでいます。 「神よ、なぜこんな事を」と「なぜ!!」と聞いている時には答えはきません。「なぜか」という事は質門ではなく「あなたの答えを却下する、もう一度他の答えをせよ」といっているのですからね。しかし、ハバククも、「なぜあなたは何もしないのですか?」という所から「私は何をしたらいいのですか」という場所に移されるのです。 そして「わたしは、なにをしたらいいのですか」ということは、ビジョンを得たことです。最初はビジョンがはっきりしなくても、書き出してください。書き出すなら、書き続けていくことで、そのビジョンはだんだんとはっきりしていきます。そして、そのビジョンによって、天からの「満たし」がやってきます。問題は、フラストレーション、重荷となり、ビジョンとなり、天がそのビジョンから地に解き放たれることになるのです。 ビジョンは天にあって、あなたに見つけられ、歌われることを待っている歌の歌詞のようです。書き出すことによって、チャンス、機会が、あなたの人生の上にある好意と共に働くことでき、チャンスや好意はあなたの所にやってきます。天が地で解き放たれる、立てあげられるためです。 そして、3章でハバククは 主よ、わたしはあなたが過去にやったみわざを聞きました。どうぞそれをまた、行ってくださいと言っていますが、これは証しのことです。ベテル教会のリーダーの会議は、かならず「神様がしてくれた良い働きの証しをしましょう」といって、視野を正しくしてから、問題に対処します。 最初に 神を高くすることで、問題は小さくなってくるのです。 そして、最後、いつも主にあって喜んでください。ハバククのように「しかし、わたしは主にあって喜び勇み、わたしの救いの神にあって喜ぼう」と「私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」といいましょう。 https://youtu.be/Msz–NwA-Ok

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「痛みを委ねる事 」ブライアン・ジョンソン

「痛みを委ねる事 」ブライアン・ジョンソン

メッセージ:ブライアン・ジョンソン 同時通訳:相馬伸子 ピリピ1:9.10 ヨハネ5:34、41 自分は今までの人生で痛みを感じない、痛みがあっても、その感情をどうやって取り扱うかを知らない男性でした、しかし、去年の7月に起こった出来事によって、転機がきました。その頃は賛美の学校のミニストリーが一つ終わり、しかし賛美のレコード会社の仕事は、繁栄し、同時に沢山のストレスを抱えていた時でした。 急に、心臓が痛み、自分では自分をコントロールするできなくなり、十代の頃に一度解放されたパニックアタックも再発し、ノイローゼになってしまいました。ミニストリーもできなくなり、家で子供の声が大きいと家にはいられなくなり、庭の芝生を見てもパニックアタックになるような非常に苦しい季節になりました。 特にアメリカの男性は「タフ」になり、強くなければならない文化があり、自分の中の痛みに対して「感じる」事をせず、痛みを避けようとします。 自分達は、よくスポーツの試合を見たり、沢山食べたり、それ自体は罪ではない事をすることで「天の父に渡すべき痛み、苦しみ」をこれらで簡単に忘れる、また心のそこに埋めるのです。でも、それは、いつか爆発して、自分のように壊れます。砕けます。 人間は痛みを感じるように作られています。イエス様も痛みを経験し、でもそれを天の父の足もとに委ねたのです。自分たちもそうです。妻によって、ソーゾーの祈りに導かれ、赦していない事に気つかされ、対処できましたが、その痛みが取られた事は感謝です。 イエスは人の賛美は受けない方でした。私達も、人からの賛辞によって高く挙げられるなら、人からの言葉によって低く落とされるでしょう。神様のところから、自信も、資格も、友情も受ける事が私達を長い間信者として歩ませるために必要です。偉大な人たちは、急に偉大になったのではなく、誠実に、真の友情を育て、神の声を聞き、啓示をうけるのです。 イエスは「あなたはなにがほしいのか」と弟子たちに聞きました、それは「あなたは私から何がほしいのか」私を使うためか?それとも友情のため、ただあなたがほしいというのかと 私達に聞いていると思います。私達はテストされます、イエスがただほしいのか、願うのか、それとも、ミニストリーに使うためにイエスを求めるのか? Original message: Surrendering Pain – Brian Johnson 2016-5-8 Sunday Morning Bethel Church Message © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 Interpretation by Nobuko Soma https://onfire.jp https://www.youtube.com/watch?v=noOdRc14Uos (Brief introduction video. 5分の紹介動画) http://www.bethel.tv/watch/4006/sunday-night/2016/05/08 (Full message, requires registered account. 登録必要) So many of us spend our lives trying to avoid pain without realizing that facing the pain head on might be the thing that propels us into our very destiny. The reality of pain in our lives is inevitable, but we have a choice of what to do with it: will we retreat from it, or will we bring it to the Fathers feet, choosing to praise Him even when we dont understand? Brian Johnson shares his journey through pain, and how the Lord brought him strength and courage for his destiny through his darkest season.

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「神様が無言の時 」エリック・ジョンソン

「神様が無言の時 」エリック・ジョンソン

1テモテ2:3、4、エペソ5:17、18、1テサロニケ4:6、7、ピリピ1:29、ヨハネ15:15、2コリント3:6  私達信者の中で、「自分の人生の為の神様の御心」の話をすると、よく相手の心が閉じているのを感じます。多くの教会では、「神様の御心」が制限するもの、私達の力を奪ってしまうものとして扱われている事ようです。神の御心と、それにそった判断を人生でしていく事は、私達神様との関係を持つものにとっては、かならず必要な事で、それを避ける事はできないのです。 神様の御心は、あなたが思っている以上に 広くて、あなたに力を与えるものです。あなたが、救われて、聖霊で満たされて、良い行いをすることです。 私達が「神の御心」にそって、何かを判断する時、決断する時「正しいことをしたい」と「間違えたくない」という正しさ、間違いのように、考えてしまい、特に「間違った決断をしたら、自分の人生はおしまいだ」と恐れるのです。「神様の御心」を正しく判断できなかったら、祝福されないと思うのです。 でも、このように思うことは、「奴隷やしもべ」としての関係に立っているからです。奴隷は、仕事をするだけが人生の目的であり、主人の家や心に入ることは決してありません。しもべは、心にふれ、家に入ることはできるかもしれませんが、会話に参加することはないでしょう。しかし私達は、「友」であるとイエスさまに招待されているのです。教会は今現在この「友人」としての親しさ、親密さに歩むことができる季節ですから私は、喜んでいます。 自分の人生でも、決断をする時、大きな決断の時に限って、神様は無言であるように感じます、それは「あなたが何をするのか、見ていよう」と父の心で見ているからだと思います。友達は、一緒に作り出していくのです。自分は親として、子供の夢が実現することを一緒に生きることを喜びます。

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「甦りがもたらした憐れみ」 ビル・ジョンソン

「甦りがもたらした憐れみ」 ビル・ジョンソン

使徒13:32〜33、詩篇2章、ヨハネ20章 今日は甦りのイエスを祝う日です。 イエスは処女マリヤから生まれてきて、カルバリの十字架で死なれ、死から甦らされました。詩篇2篇で「あなたは、わたしの子、きょうわたしがあなたを生んだ」とあるように甦りはイエスが2度目に生まれたと言えないでしょうか。最初の「誕生」でイエスを抱きしめたのは処女マリヤ、そして甦ったイエスを最初に抱きしめたのはマグダラのマリヤ、イエスに7つの悪霊を追い出してもらった女性です。私達皆が彼女に問題があったように、私達も問題がありますね。イエスが「甦りに生まれた」時には、季節が変わりました。憐れみが解き放たれました。甦りは「死から長子が生み出された」という事です。しかし、イエス様は罪人ではないので、人類が新しく生まれなければならないようでは全くないのです。イエスは私達の罪の代価を支払った。身代わりとして死なれました。聖書はイエスが罪となられた、だから私達がキリストの義とされる事ができる。イエス様は甦らせられる事を信じて、死なれました。父なる神がイエスを死から命に移しました。私達は、キリストの甦りの命を現す、解き放つ者達です、言葉と行いと態度によってです。 主の墓をマリアが見た時にイエスのからだの頭と足のあったところに天使が2人いるのを見ました。契約の箱は、証しの箱とも言われています。中に入っているのは十戒、アロンのアーモンドの枝、マナのツボでした。イスラエルの民と神様との歴史を現すものです。その箱の上には2対の天使が向かい合って、その間には憐れみの御座があります。 マリヤが主にあった時、彼女はそれがイエスだとわからなかったけど、マリヤと呼ばれた声でわかった。そのようにイエスは私達の前に異なった姿で現れるのです。わたしの羊はわたしの声を知っている、人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる言葉で生きる、とあるように、私達は「声」で判断する、わかるのです。臨在は声です。 主の御名を呼び求める者は皆救われる、それは主が私達全人類に与えてくださった事です。死んでいる者は神を見つける事はできません、私達が誰一人として自分でイエス様を見つけた者はなく、神が私達を追いかけ、求めて、くださったのです。 クリスチャンとして生きる事は甦りの命を生きる事、解き放つ、現すことです。キリストの命は、解放、奇跡の中に見えます。そして、もっとも大きな奇跡は救いです。

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