投稿者: Onfire Japan

「満ち足りる心を見つける」エリック・ジョンソン

「満ち足りる心を見つける」エリック・ジョンソン

ピリピ4:10〜13、コロサイ1:15〜17  パウロの書簡の中心には、いつでも「喜ぶ事」が書かれていると私は思います。。私が彼の人生を思って、それを考えると、非常に心に響きます。なぜなら、彼は福音を語ったが故に、精神的、肉体的にひどい迫害を受け、拒絶され人だからです。そしてピリピ書でも、貧しい中でも、富んだ中でも「満ち足りる事を学びました」と言っています。驚きます。彼はなぜ、迫害や困窮の中でも「満ち足りる」事が出来たのでしょうか? もし、「満ち足りる」事が目に見える状況や、物理的、霊的な事からの結果としてもつものであるならば、その人の満ち足りる心は1週間ごとに上がったり、下がったりするジェットコースターのようでしょう。しかし、私はパウロの満ち足りる心は「イエスキリストの故に」という事から来ていたと思います。ですから、「いつも喜んでいなさい」という事も、強制や意志の力によって喜びぶことではなく、イエスキリストの故に喜び、勝利していたのだと思います。コロサイの1:15〜17は、非常に深く、まるで真理が凝縮されているようですが、パウロはこの事を理解していました。結局は、「イエスキリストの故」なのです。 賛美は王が来られる為の道をスムーズにします。私の娘達が小さかった時に私が帰宅する車をみて、娘達が「パパが帰ってきた!!」とソファーから飛び上がって、私を呼ぶ声は私が部屋に入る事を早めました。感謝の心を働かせてください、それはイエス様をあるべき人生の中心に戻すものです。

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「礎石」ビル・ジョンソン

「礎石」ビル・ジョンソン

ヨハネ13:2〜11、16:23、24  多くの考え、価値感、神学をまとめる幾つかの要素を「神学の礎石」と呼ぶ事を数年前に考えたのですが、今日はこの教会の家族の為の礎石のアイデア、そこから派生する4つの態度を話しましょう。 1つ目は神が良い方である事、2つ目は神とあるならば不可能な事はない事、3つ目は私達のすべての必要は十字架で支払われた、4つ目は私と私達は重要である事。このアイデアから派生する4つの態度とは、神が良いお方なので、私達は大きな夢を見る事を要求されている、そして神の内にあり不可能はないので、私達はリスクをとる。そして十字架ですべての必要は与えられたので、私たちは神を信頼する。そして私達が重要な存在であるから良く仕えるものであることです。 私達が重要であること、それは神様の壮大な偉大さ、重要さが分かった時に分かるのです。私達の教会のミニストリースクールではアイデンティティーを徹底的に一年目に教えますが、それを理解、消化できていない人は自分の賜物や、働きを見て自分を高くますが、本来の神の壮大な重要さを見た人達は、決して他の人を自分の周りに呼び、自分の帝国を建てる事はしません。 父なる神の夢は私達信者である子供達が喜びで満たされる事です。喜びが泉のように湧き出ていく事だとヨハネ16:3で言われています。天においては喜びは信じがたいくらい高価であり、イエスが十字架を忍ばれた時も、喜びのゆえに十字架をしのび通されたとあります、喜びはイエスの十字架の報いでした。 不可能が可能になる事をリスクをとって信者が生きる時に、神の本当の本質が現れる、見えることがでるのです。不可能の領域がイエスの名を私たちの唇が宣言して、その名にひざまずく事がなければ、神の性質は100%現される事がないのです。

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「私達の父からの祝福」ダニー・シルク

「私達の父からの祝福」ダニー・シルク

神はビル&ベニジョンソン夫妻を私の霊的な父母として選んで与えられました。 私達は父親はいるけど、父親はいないという事に立ち向かわなければならないのです。どういう意味でしょうか? 関係が育ってなかったり、完全な父はいないという事です。 天のお父さんの心、使徒的な流れはあなたに流れて、あなたを通して流れていきます。天のお父さんが探しているのは、天をじっと見つめ続け、父を優先順位にする事ができる人達です なぜならば、神はこのような人々をリーダーをして成させ、リーダーシップホジションにつける事を願っているのです。 私の人生でも、肉の父は私と一緒にいる事ができなかったし、完全ではありませんでした。神はビル&ベニジョンソン夫妻を私の霊的な父母として選んで与えられました。 霊的な父母とは、彼ら自身の人生を上手に育て管理し、それを霊的な子供に与え る事ができる。霊的な子供の人生をも、彼ら自身の所有しているもののように育てる心や投資することができます 霊的な両親を持つことが、その人の家に招待されて、食事をすることや、一体一で話をすることではないのです。その場所で、かれらの使徒的な流れを受けて、父母から影響を受けることを願い、許可することです。 私は信者として「新しいことを学ぶ為に、古いことを忘れる」ことはほとんどしなくてよかったのです。何もしりませんでしたから。 使徒的な父母達は、娘息子達を育て「父母から受けて育つことだけしか、知らない」。「それが普通であって、それ以外の事はどうするのかどうぞうもできない」人たちをそだてるのです。

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「戦いはあなたの思いの中」ビル・ジョンソン

「戦いはあなたの思いの中」ビル・ジョンソン

2コリント10:3〜5、エペソ6:14〜17、マタイ16:23 「強い要塞」の話をするならば、それは軍隊が隠れる事ができ、そこから戦いに出る事が出来る場所だと言いましょう。 城壁で囲まれた街を思い浮かべてくれたら良いでしょう。私達の思いが戦いの場所である事は、すでにみなさんが知っていると思いますが、それどのようにでしょうか? 2コリントの10:5に「さまざまな思弁、それは神が真実である事、神の知識に逆らって立つもの」とあります。「思弁」とは、想像、推測、考えなどですが、これは私達が神の思いの中にない事、私達や御国についてなど神の視野ではない事柄を思いの中にとどめる頃や、考えを巡らせることが、「戦い」でしょう。ですから、「要塞」とは、考えではなく、「考え方」「マインドセット」 なのです。 目の前にあることがらをどうやって「考える」のかなのです。私達が神の思いで無いことがらを思いに巡らせるなら、それが敵にとって「要塞」となり、隠れ、守られ、そこから私達に戦いを挑むのです。 マタイ16:23で、イエスはペテロを叱って「下がれサタン、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」といいました。イエスは全ての中心です、そのようにして私達もデザインされているので、イエスが中心になければ、人類は本質的に悪霊的なものです。「人のことを思っている」というのはそういうことです。 エペソ6章には「神の武具」が書かれていますが、「救いのかぶと」とありますが、これは「救われた人、新生した者として考える、マインドセットをもつ」ことです。そして「信仰の大盾」があります。信仰によって敵の火矢を防ぎますが、もし、敵の火矢が大盾を貫いてきたら、どうするのでしょうか?「神の言葉の剣」を使います、これは短剣であり、盾から火矢を抜き取ることができます。イエスは40日の断食のあとに、私達に模範を示すために神の言葉を持って、応答されました。

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「聖書を愛すること」ビル・ジョンソン

「聖書を愛すること」ビル・

ローマ15:4〜6、13〜14,17〜19  私の願いは「聖書を読むこと、神の言葉に対しての飢え渇き」を皆さんの心に掻立てる事、そして「生徒」ではないという方を「生徒」である事にすることです。私は若い時には、本を読む人ではなく、また良い生徒でもありませんでした。しかし、ある時に情熱をもって主に私の人生を捧げる祈りをしてから、ローマ書についての事が書かれているある本を読みましたが、非常に驚きました、なぜならその本に書いてある事が聖書のローマ書にあることだと思えなかったのですから。その時からみ言葉への飢え渇き、聖書を読む事への情熱は変わりません。 最近娘と母にそれぞれ危機的な状況があった時も、私は聖書にやってきて、この命であるみ言葉を確認して、妻に携帯で連絡して彼女を通して一緒にいた娘の状況に宣言と祈りをしてもらっていました。私たちのうちにみ言葉を貯めることは、必要な時に、貯水池から水を汲んで必要を満たすようなことです。あなたが主から飲んだ飲み物はあなたの内で水の流れになり、周りを潤すことができるのです。 み言葉は私達を「忍耐と励まし」を与え、「希望」を与えるのです。最も大きな希望を持っている人が最も大きく影響を与える事ができるのです。また神の言葉を聞く事で信仰が与えられ、また喜びと平和も来るのです。 「聖霊の力」とある事に注目してください、これは「言葉」だけでなく「行い」(力の現れ」)によってパウロが働きました。彼は知性、教養があり、雄弁でしたが、それだけでなく「御霊の力」によって、成し遂げました。近年の欧米文化では、体験によって学ぶより、知識として情報を教えることで資格や勉強になりますが、ヘブル文化では逆なのです。ですから、言葉だけでなく力の現れが必須です。言葉だけでは福音ではありません。私達信者の特権はこの全知全能の神を知らない人たちにこの「言葉と力」を持って紹介することです。み言葉を宣言するときに、語るときに聖霊様ご自身が承認し、バックアップしてくださいます。 

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「答えは大事」ビル・ジョンソン

「答えは大事」ビル・ジョンソン

マタイ6章、マタイ11:12、9:19 マルコ9:28、29 私達は「答えられない祈り」を祈るために創造されたのではありません。それは、中身がないことです。しかし、自己中心と無知は祈りが答えられないことを容認してしまいます。 しかし、それは祈りの答えが遅れたりすることを非合法にするわけではないのです。私達皆が、まだ答えられていない祈り、打ち破りの必要な事柄があるでしょう、私もそうです。しかし、その中での大切なことは、その過程、プロセスを神様を責めない、そして自分にも自責の念や、恥をもたらす思いに同意しないことです。 マタイ6章の「弟子たちの祈り」があります、ここでの優先順位はなんでしょうか?天の父の御名があがめられ、天が地に来るようすることです。また、6:33では、「まず神の国とその義を第一に求めなさい、そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます」とあります。それは、神は日常の必要を満たすし、そのことを祈るのはよいけれども、まず、第一は神の国、それはキリストの統治ですが、あるように。そして、神の義とはキリストの御性質が私たちの人生を通して世に現れることです。しかし時に私達は、この優先順位を逆さまにして、最初の事柄を犠牲にして、その次の事柄を祈ってしまうのです。あなたが主の声を聞いていないと思ったら、これらの神が話そうと思っているトピックのことを話してみてください。 富を得る時には、良いリスクを取った投資をしますね、例えば50セントで株をかって、のちに100ドルの儲けをえる、でも、これらのことはリスクを分散することで良い結果をえるでしょう。 それと同じに私たちの祈りも、多くの人生の分野に分散されるべきです。何か一つの祈り、打ち破りにだけ集中して「これが聞かれたら私は神を信じる」ということは私は愚かだと思います。日々答えを受けることができるように祈り、私はそれらで「まだ打ち破りが来ていない事柄の祈り」に対しての励ましを受けることができます。 マルコ9:28、29では弟子達は悪霊を子供から追い出すことができなかった理由を弟子たちはイエスに聞き、イエスはそれに「祈りと断食」と言いました。打ち破りがない時に、自分たちは「これは神の時ではないからだ」という神学を作って、自分達を打ち破りがないこと、祈りが答えられなかった事の痛みや欲求不満から自分達を分離して守るべきではないのです。イエスはここ不信仰に対処していますが、信仰は「神の言葉を聞くことからきます」から祈りと断食によって自分の視野をもう一度定めるのです。

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「信仰対資格 」ビル・ジョンソン

「信仰対資格 」ビル・ジョンソン

ヤコブ1:2 信仰で歩いている時に、チェックされなければ、それは「自分には資格がある」と勘違いしています。その意味は「自分の祈りは答えられ、打ち破りを得た。それは聖書に書いていることをきっちりしているからだ」と思って全ての事が恵みであることを忘れてしまうのです。全ては恵みなのです。しかし、「私の能力や何かはそれが起こったことの理由」と思ってしまう性質が私たちのうちにはあるのです。神の御国を受けるには「心が貧しい霊」を持つことですが、それは自分を否定的に見て、何もないというのでは悪魔に同意しています。全てが恵みであることです。 リバイバルは私たちが何かしたから起こるのではありませんが、神が語った、言葉によって創造された流れに私たちが入って行ったので、それが起こったのです。私たちは神から離れては何もできませんが、同時に神も私たちを通して働かれるのです。 刈り込みは私たちが従順に主に従った時に、実った実をもっとよく実るためにすることですから、それは恵みです。刈り込みを受けることは罰ではありません。しつけされることは罰やはずかしめではなく、恵みです。 旧約聖書ではあなたは周りにある、汚れや邪悪 によって汚れるので、それらから分離していなければならなかった。しかし新しい契約、イエスが来てからはあなたの中の義のちからがあなたの触るものを聖なるものと影響を与えることに変わりました。 試練にあった時、その結果を先に計算して喜びましょう。足りないものがあるときには、神がそれを満たすことができ、「欠けたところのない者」とされることができるのです。祝福や増加によって私たちが殺されてしまわないために、主は私たちを試練をも用いて整えるのです。

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「暗い季節に立ち向かう時」クリス・バロトン

「暗い季節に立ち向かう時」クリス・バロトン

イザヤ35:1〜7 ネヘミヤ4:15〜21 「疲れた者を励ます」メッセージはいつ聞いても良い言葉です。しかし、主が私にこれは「今」の為、そして「体、共同体」としての必要があり、預言的に今がこの「疲れた者が多くいる」ので励ます事を解き放たれると信じています。 イザヤ35章で「荒野」や「砂漠」とありますが、これは例えなので、実際の場所はなく、私達の人生の中にある季節です。約束の地にはまだ、到達せず、しかしエジプトからは立ち去ってきている、その間の乾燥した、大変な、進めなくなっている時です。 「疲れた者を励ます」と言葉とネヘミヤ4:17節の「投げやりを堅く握って」という言葉は、全く同じ言葉です。ネヘミヤは城壁の回復を成し遂げますが、私達の人生の城壁も色々な事柄で破壊され、それを回復する働きはそれぞれがする事ですが、敵が妨げ、力を失う時に、「槍を堅く握って立つ」ということは「私はあなたの為に敵と戦う、敵からあなたを守る為に武器を持って立っています」とする事が励ましなのです。時に私達は「あなたは良くやっている」という事を励ましとして語ること以上の事が必要です。霊的な戦いを他の人の為にする事です。 悪魔に焦点をあて、まるで神が弱いような感想を持ってほしくないです、しかし同時に敵がいる事を認識する事をパウロやペテロはしっかりと語っています。時に私達は敵の攻撃を普通に対処しようとします、病院やカウンセリングを受ける事などで解決を見ようとしますが、霊的な戦い、敵のアタックのときもあります。 「弱った手を強め」ることは「力強くされる」ことでもあります。ヨシュアは「雄々しくあれ、強くあれ」と主から「命令」されました、それは「提案」ではありません。ヨシュアは荒野を恐れてはいませんでした、相続である約束の地を恐れていました。 恐れは正当化されていいものではなく、解放されるべきです。あなたが、もし恐れを受け入れて、恐れている事柄をしない範囲の中で生きているなら、あなたは既に恐れによって、神からの使命を 縮小しています、あなたは、キリストの内に既に隠されているのです。隠されていなければできない事ができるのです。すでにあなたがいきているのでなく、聖霊があなたの内に住んでいます。

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「誓約の歴史を作る」ビル・ジョンソン

「誓約の歴史を作る」ビル・ジョンソン

マタイ2:1〜12 私はこの季節だけクリスマスを祝うのが、残念だと思うのです。この事柄は一年にある一時だけ認識され、祝われるのではなく、私はいつも覚えたい事です ある祈りの人は「神様は祈りの答えとしてだけ、私達の人生に介入される」と言われました。もちろん神は何でもしたい事をされることはできます。このポイントは、祈り、人間が主に叫び求める事は主にドアを開くことです。キリストが現れた事でさえも、イスラエルの民が叫び、求めた事を忘れる事はできません。私があなたの家の大家だとしても、私は勝手にあなたに貸している家に入って好き勝手にする事はできません、ドアをノックして許可をもらわなければなりませんね。それと同じです。 「東方の賢者」は黄金、乳香、もつ薬をもって、ユダヤ人の王に会いに行きました。彼らは星をみて「この上もなく喜んだ」とありますが、この言葉の意味は「やり過ぎ、激しく、おかしく見える様に」という意味があります。この時点では賢者達はイエスを見ていませんが、それだけ喜んだのです。でも、その様な喜びを「賢者」は現しました。香油を注いで、イエスの足を洗った女性のようです。教会にその様な「やり過ぎに見える様な」礼拝の喜びの表現が戻る時です。 そして彼らは赤ちゃんのイエスである王様です。ソロモン王の所に多くの人が偉大な知恵、解決を受けるために会いにきましたが、彼らはイエス赤ちゃんの王様が彼らに与えられる「もの」ではなく、「イエス王」に会いにきて、礼拝しました。 イエスは私達の為に全てを完成させました、ですから私達は「まったく何もしない」という教えの流れがありますが、私は思うのは、それが故に礼拝の時に、何も持たずに、与えずに出てしまうと、関係を作る事が体験できない事です。神は契約、誓約の神です。 私は何度も、自分の人生を神の前の祭壇にのせ、捧げて、打ち破りや人生の危機、そしてもっと主に近くなる事を願ってきました。捧げる事をしなければ、契約の神、誓約の神との歴史、私だけが作る事ができる主との関係を育てる事はできません。

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「普通でない勝利」ビル・ジョンソン

「普通でない勝利」ビル・ジョンソン

士師記20:18〜28  士師記20章で、イスラエルの12部族の一つのベニヤミン族が女性を性的暴行を加えたあげく殺人し、それを悔い改めない事態が起こった時にその他の11部族は集まり、ベニヤミン族が犯した様な罪を国から消し去ろうとし、ベテルにのぼり、主に誰が最初に戦いに出るのか聞きました。主は「ユダが最初」といいました。ユダは賛美という意味で、私達の「霊の戦い」をここから学びますが、私達は賛美によって戦い、前進します。賛美は主に焦点を当てますが、私達の霊的戦いは敵、悪魔に対して焦点を当てる物ではないのです。 イスラエルは戦いに出ますが、1日目は2万2千人、2日目には1万8千人を失ってしまいました。しかし、彼らはもう一度神の前にでて、「私達はまた出て行って戦いましょうか」と聞いた時、主は「攻め上れ、私は明日、彼らをあなた方の手に渡す」と言われました。私達は勝利を自分達の状況の変化、改善によってはかりますが、主が異なった視野を持っている事を知っていますか?主はイスラエルの民が2日、敗北して、4万人失った後にも、「主の声に従う」事を願ったイスラエル人達を見て「勝利」を見られました。あなたは主に従って何かをして結果が期待通りに全くならなかった経験がありますか?あなたが敗北した後祈った時に、あなたは勝利しました。 神は私達に与え、私達が祝福を受ける事によって周りを祝福する為に、私達をその祝福、神の栄光臨在を管理する人格、許容量を建て上げる「過程」を通しています。憐れみの故に、私達が主の臨在、栄光によって破壊されないように、訓練され、育てるのです。祈りの答えが遅いと思っているなら、その時間はボーナスを貯めているのです。その為に「すべての事を用いて益とされる」の御言葉がローマ書にあるのです。

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