投稿者: Onfire Japan

「知恵を求めて下さい」エリック・ジョンソン

「知恵を求めて下さい」エリック・ジョンソン

コロサイ1:27、箴言8:22~、出エジプト31 私達は新しい季節を歩んでいると思います、そしてその為に私達は知恵が必要です。ダビデの季節(戦いで土地を所有した)からソロモンの季節(知恵と平和で王国を立て上げた)に入りました。神の国を前進させる事について神は私の古い考えや世界観を壊し新しいものを見せて下さっています。以前は特定の奉仕や立場についたエリート達が御国を前進できる、だから私もそこに到達すべきだし、その人々は偶像化されていました。しかし、今は「私のアンデンティティー」が奉仕であり、私が置かれた所で神の知恵によって優れた働きをするならば、それがビジネスと呼ばれても、ミニストリーと呼ばれても良いのです。神の知恵は良いアドバイスや教えではなく、創造して生み出すものです、それが解決をもたらします。 神の御国の前進の為の戦略的な鍵は「今置かれている場所で、自分が去った後に物事が大きく増加するように、去る事を念頭にいれておく」事です。イエスが天に上げられてから、使徒の働きに入ってから神の御国が爆発的に増加した様に、あなたがいなくなった後はミニストリーや仕事が崩れるのではなく、その後にこそ拡大する事を、あなたの人生のゴールにして下さい。 あなたに必要な解決は既にあるのです、それは「栄光の希望、キリスト」があなたの内におられる事です。問題が多すぎると文句を言ってばかりなのは「否定的な取りなし」であって、問題があなたの人生にあり続ける事を歓迎するようです。あなたの解決は既にあたえられています。

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「甦り、新しい日」ビル・ジョンソン

「甦り、新しい日」ビル・ジョンソン

ヨハネ 19章 31節~36、37節の預言の言葉の独特な所は、預言者は当時の人々の状況に語られているにも関わらず、究極的にはそれが「救い主」の為の預言であることでしょう。 過去数十年、数年の間で尋常でない奇跡や癒しが起こる時に、気がついたのですが、それは私達が「~の事があるかもしれない、~は可能である」という神の全能さに 寄りかかり、そのなかを歩んでいく時に 事柄、打ち破りをもたらす事があるのです。「奇跡の領域」は神がすべてをされる境域であり、私達にはできない領域ですから、ある意味簡単だと言えるでしょう。でも、これは「トラウマを癒す」かも知れない、という小さな声、印象を受けた時にそれに寄りかかり、実践する時にそれが起こっている事を見ています。偉大な信仰は「傍観者」であっては持つ事は難しいでしょう、しかし「期待し、準備し、参加している」所には偉大な信仰があるでしょう。 34節 血と水がでてきましたが、血によって罪の赦しには解決がありましたが、それであっても水、御言葉の水により私達は洗われます。自分がわくわくする事は、私達の心が、関係が神が予定している時間を変更させてしまう事も可能であるという事です。マリヤを見た時、イエスは「自分の愛するものがいるから予定をちょっと変えて、彼女と話そう」とおもったのではないのでしょうか。マグダラのマリヤは新しい始まりにたちました、それはイエスが彼女の名前を呼んだときです。

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「四つの大切なこと」エリック・ジョンソン

「四つの大切なこと」エリック・ジョンソン

箴言4:23 ベテル教会は驚くような事柄が沢山ありますが、その土台の4つの事をもう一度話したいと思います。 1. 神の臨在を良く管理する 2. 自分の心を良く管理する 3. 御国を理解し実践する 4. 人々の中の飢え乾きをかき立てる 神の臨在を良く管理する事について、過去数年で学んだ事は、神が私達を「共に生み出すもの」として呼んでいて、主の臨在とどうやって交わりをするかを教わっている気がします。また、この事は自分の娘達が父である私にどうやって関わるかによって大きく学びました。それは私が「せっかく主の臨在があるからこれをだいなしにしたくない」と思ってただ黙って見ている所から「お父さん、私達に何を一緒に生み出して欲しいのでしょうか?」という心で踏み出す事に変わった事です。 自分の心を良く管理する事箴言4:13「力の限り見張ってあなたの心を見守れ、いのちの泉はこれから湧く」とありますが、心を良く管理する事によって主の用いる事の出来る器になることができます。また、「人々の中の飢え乾き」をかき立てる、増加することです。飢え乾いているから質問する人や疑いをもって質問する人達がいますが、飢え乾いている人をみてイエス様がしたように時間を過ごす事。御国の為のマスターキーは「とても良いお父さんを持ったこども」として生きる事であり、御国に反対する人達は「怖い神様」「厳しい父」と神をみています。

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「私たちがすること」エリック・ジョンソン

「私たちがすること」エリック・ジョンソン

民数記13:16~33 私達、ベテル教会は「神が良いお方である」ので癒しをされる、と言う事を15年くらい前から言い始めましたが、その当時はそれに対して反対や戦いがありました。また、私達の家族が病いで失われる事もありましたが、私達はこの「神が良い方であって、癒しをなされる方」という神の約束を受け取っていました、ただの良い考えではなく神様がこの約束を下さったので、私達はその為に戦ってきました。 その為には、私達には今理解できない事があるという事を受け入れ、神の良さを信頼して歩く事が必須です。人生の中には私達が判らない事、なぜこんな事が起きたのか?と思う深い喪失や苦難がありますが、私達はそれをも神が良い方であると言う事を信じなくする為にもちいてはなりません。悲しむ事は健康ですから、無視しないで、 感情を押し込めないで、分かち合い、共に泣いて下さい。そしてまた、立ち上がり戦うのです。 実は先日私の叔父が癌で数年の戦いの後亡くなりました、そして祖父は9年前に癌で亡くなりました。しかし、その時に私達ジョンソン家が集まってした事は「非常に苦しい状況の中で神が良い方である事を感謝し賛美礼拝する」事でした。先日叔父が無くなった時にも、妻である叔母は「主の誠実さは偉大です」という賛美歌を一緒に歌う事を選びました。これらの事は決して容易ではなく、プレッシャーの中でこそ、神の御国のがどれだけ私達に影響を与えているかを知る事になります。 モーセは12人のスパイを送り、約束の力の実(ブドウ)と報告を受け取りましたが、私達が約束の土地の前にいる時にいつも「実」と「報告」を受け取るのですが、この12人のうちに10人は否定的な報告、ヨシュアとカレブだけが、希望に満ちた報告をしました。しかも、この12人は同時に同じ状況を見たのです。この「実/証し」を受け取った時には、もし、欲しければあなたも約束の地に入り、実を取る事ができるという招待状です。土地に入り、土地を所有する事はあなたがいつでも欲しい時にその実を手をのばして取り、自分や周りの為にそれを用いる事が出来るのです。隣の人の土地ではそうはいかないのです。ですから、どうぞ「実」を受け取ってください。所有してください。 ダビデは「戦いの人」としてイスラエルが土地を所有する為の目的を持って用いられました、そして息子のソロモンがその上に「平和の人」として街を作る、文化を建て上げる事を用いられました。私達の今の季節がこのソロモンの時のようだと感じています。「文化を建て上げる、神の御国の文化をこのレディング市に建て上げる」時です。

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「『薄い空』と子供達」ビル・ジョンソン

「『薄い空』と子供達」ビル・ジョンソン

マタイ18:10 マタイの18章でイエスは「考えかた、態度、視野」について教えています。イエスが初めに人を改革するために言われたのは「悔い改めなさい」であり「考えを変えなさい」という事でした。神は天で考えるように、チでも同じ考え方が常にできる人々を立て上げています。 10節で「あなたがたはこの小さい者達を一人でも見下げない様に気をつけなさい」といっていますが、これは「小さいから重要ではない」と「考えてはならない」と言っています。私達の教会では「敬う文化」を強く強調していますが、肩書きのある者、ビジネスリーダーを敬う事、丁寧に取り扱う事は簡単だし、それは権力争いのようですが、神の御国の原則は「最も小さいものを敬う」ことであり、「自分に利益を与える事ができない」人を敬う事です。 マタイ18章12節から13節は良く伝道の為に読まれる聖書箇所ですが、これは「子供の価値」を教えているのです。悔い改めて子供の様にならなければ神の御国には入る事ができないともイエスが言った様に、子供とは私達が救われたならあるべき姿なのです。私達の教会では30年ほど前に「神は子供に子供サイズの聖霊をあたえない、同じ聖霊を与える」事を学び、それから子供達の価値を見て祝う事をしてきましたが、本当に主が子供に重要な事を与え、また子供を通して偉大な事をされる事を経験してきました。 また私達は「まだ救われていない人」にも神が見ている様に見て価値を見ることを信じています。神が敬っている人々を私達が敬わないのは愚かな事でしょう。また、牢屋にいる人にした事は私にしたのですともあるように、神は私達が神様以外の人にした事をも神様にした事だと個人的に受け取ってくださるのです。 10節の後半では「彼らの天の使い達は、天におられる私の父の御顔をいつも見ているからです」とあり、私達が地上で最も小さい者達を敬う、神様が見る様に見て、考える時になにか、天の御国と地上の霊的な領域に起こる変化に関して繋がりがあるのです。それは開いた天、天と地が近くなるような、薄い天を作り出すようです。 私達は礼拝賛美や聖霊の注ぎが開いた天をもたらす事を信じて、祈り歌い宣言しています、しかしそれだけではなく、なにか「神に対してではなく他の人」を敬う時に主が 開いた天、薄い空をこの街の中に開いて下さって、主の臨在、栄光がやって来て、人々が神の愛を体験する事ができるようになるのです。それは、あなたが親切でない近所の人、同僚に対して「敬う」事を選んだ時に起こるのです。

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「力の二つの目的」ビル・ジョンソン

「力の二つの目的」ビル・ジョンソン

箴言3:5、ヘブル10:31~37、詩篇23:5 私達が神様からの召し、使命を成就する為にこの2つの事を学ぶ事は必須です。自分自身がミニストリーを受ける事、そして落胆した時にそのなかでどう歩くかです。 「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」の認めよの原語は「知る」という言葉であり、それはアダムはイブを知りそして子供を宿したに使われる言葉です。親密さを持って知るという意味です。ですから、どんな状況の中にあっても主を「体験して、知って」いく事によって、主が道をまっすぐに歩きやすくしてくれるのです。「私の敵の前で、あなたは私の為に食事を整え~」とありますが、この食事は「親密さ、交わり、」を指していて、これを見つける事は私達の特権です。力が無い時にも、この食卓を見つけるなら、そこには弱い者が座り、その弱さの中に神の力が完全に働く事になります。敵が私を取り巻いているかもしれません、でもそこには食卓があります、食事をともにする事、宴会があるのです。 使徒の働きを読むと、聖霊の力の働きが沢山あり、その中に見るのは「奇跡」と共に、「耐え忍ぶ事」です。まだ私達は「理解できない事」があり、願って祈って来た事がそうならない事の中に生きています。信仰は答えをもたらしますが、願って祈って、理解できない困難な状況にあるときに 耐え忍ぶ信仰が必要であり、それは答えとともに練られた品性を与えます。それは、「神を信頼する」ことに根を張っているので、困難な時にこそ主に100%の信頼を持って「はい」と言うは特権であり、そのなかに力があります。

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「制限する箱」エリック・ジョンソン

「制限する箱」エリック・ジョンソン

マルコ4章、コロサイ1:19、26、27 「奉仕、またミニストリー」と言う言葉の意味を広げたいのです。私達がもっているその言葉に対する定義やイメージによって神様に制限を付けて箱に入れてしまっているならば、それを取り除きましょう。 まず、「奉仕ー王に仕える事」が私達の最大の優先順位で、責任です。しかしこの「奉仕」と言う言葉に私、エリックジョンソンが思っている定義は「私が誰であるかが真実に現される事」であって、それは私が何をするかではなく、自分が誰であるかです。 「あなた方の中にいるキリスト、栄光の望み」コロサイ1:27は私が深く語られる箇所ですが、神はあなたより、あなた自身を信頼しています、なぜなら神はあなたがたの内に神ご自身を全て入れた御子を置いたのですから。高価なものを置く事は信頼しているのです。 私達はみな、望みや夢があり、それにより人生の召しや油注ぎを「制限する」事があるのですが、それは止めましょう。目の前にある機会、開かれたドアをみて「主よ、どれを私が入るべきですが?」とまようのではなく、「自分の期待はずれ、または逆の事ですが、私の目の前にあるので、これを熱心におこないます」と言って、それをするなら、そこにあなたを通して流れる神の御国に驚くでしょう。あなたがキリストに留まっているなら、仕事でも、人間関係でも、危機でも災難でも、そこにあなたが繋がる時、御国が解き放たれます。 マルコ4章の「種まく人」のたとえからですが、「種を蒔く人」は種に関しての責任があり、土に関しての責任は与えられていないのです。神が「種」を蒔きます、そしてあなたは「良い土を造る」事の責任が与えられています。それはあなたのできる事です。神は種を人類に蒔きます。種が来たなら、受け取りしっかりと走って下さい。 自分の油注ぎ、召しを制限する事、自分自身を制限する事、それは同時に神ご自身を制限してしまうことです。

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「栄光を見つめる」ビル・ジョンソン

「栄光を見つめる」ビル・ジョンソン

2コリント3:18  「栄光」の中に生きる事は、神様が全ての人類に最初に与えた使命では無いでしょうか? 「罪により栄光には足りないものとされ」とありますから、反対に考えたらその前は栄光、現されたイエスの臨在の中で、その臨在をもって生きる事があったのでしょう。 2コリントの3章はとても意味のある場所だと思いますが、パウロはいくつかの事を比較して私達「新しい契約の信者」が受けるべき物を見せています。それは「消えていく栄光」ではなく「増加する栄光」です。人が主に向くなら覆いが取られるのは神の憐れみで、主が未熟に啓示を人に与えて、準備ができていない人に責任を与えられないのです。しかし、従う準備のできている人に主は啓示されます。 私達が「主を見る」ならそれによって変革されるので、敵は「内省的」「恐れ」「焦り」などで私達の目を神の栄光から反らせようとします。「静まる事」は大切です、忙しさは栄光の敵であり、それがクリスチャンの働きであってもです。行いによっては得られない神の栄光があります。ルツヘフリンさんはいいました。「礼拝の霊が来るまで、賛美して、栄光が来るまで礼拝するのです」。

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「栄光の領域に住む」ビル・ジョンソン

「栄光の領域に住む」ビル・ジョンソン

ルカ9:27〜31、ヨハネ3;13 黙示録4:1で主が「ここにあがって来なさい」と言われた事をヨハネが書き記しているけれどもこれは私達に常に開かれている招待状だと感じます。天に上げられて、栄光の中で、主と出会う事を体験することは私達クリスチャンの普通の生活です。 イエスは「人の子」として地上に体を持って住みながら、天の栄光に上げら神と出会っていた。啓示は「覆いを取る」という意味ですが、主が私達に啓示を下さった時に、それはまだ、油注ぎを受け取った訳ではなく、その見える様になった真理により私達は油注ぎを求めて、その啓示された真理を行う事、イエスを確かに明らかにする責任と特権があるのです。特に西洋の教会では定義や教えを受け取って満足する傾向があり、しかし本来は油注ぎを求めて御国を現していく事を実践するべきなのです。癒しを信じていても、実践できる教会が少ないので多くのキリストの体は癒しを信じなくなったのです。 「変貌山」での出来事は、イエスの顔が「他の人」になり、服が「稲光のように輝いた」とあります。それは地上の人が「栄光の領域」に住む事の影響であり、私達もこのような栄光を教会としてますます経験するのです。「栄光」によって最大限に私達の考え、視野、感じ方が変化させられ、その事で回りに影響を与える事です。 聖霊は「私達をイエスの様にする」事を一つの目的にしていますが、その為にも聖霊はイエスが十字架で死なれ、甦り、上げられて、栄光をお受けになるまで人に与えられなかったのです。そして、イエスが栄光を受けられた後に注がれた聖霊は私達を「上げられたイエス」黙示録1章でヨハネが記しているイエスの様に変えているのです。十字架に向かっているイエスではなく、上げられたイエスです。 ある人は「栄光」を追い求める事が、それほど大事ではない事柄を中心的な事柄にしてしまうと心配していますが、私が思う事は、どれだけ「栄光」が大事であるかを私達が発見しているかということです。

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