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「誘惑についての初級のクラス」ビル・ジョンソン

「誘惑についての初級のクラス」ビル・ジョンソン

ヤコブ1章13、14節 マルコ14章 「誘惑」というのは状況や私達の周りにある事柄が、私達の心の内側にある問題や葛藤よって「誘惑」になるのです。 ヤコブ1章13節で言っていますが「神は誰をも誘惑に導かない」と、しかし主の祈りをイエスが弟子たちに教えた時に「私達を誘惑にあわせず」といっています。神が私達を誘惑にあわせるのでしょう?違います。誘惑とは私達の心の中にある問題や葛藤が状況や事柄にどう反応するかであり、それに引き寄せられて罪を犯すのです。 同じ事柄がある人には誘惑になり、他の人には全くそうでない、そのような事です。 マルコ14章で、イエスはペテロに「あなたは私を裏切る」と事前に教え、「起きていて、祈りなさい」と教えました。それは私達の中に自分の気がついていない弱さ、欺きがあることを「知り」、祈り恵みでそれを予防して、そこで失敗せずに成功する為でしたが、ペテロや他の弟子もそれをミスしました。ペテロが自分の中に「自分に信頼する事/自分は大丈夫だと思っていた事」があった事を彼は知らなかったけれど、イエスは裁きや恥をもたらすので無く、恵みと憐れみでそれを教えてくれて私達が祈ることで主に信頼をおいて自分の「正しい事ができる」能力に信頼せず、主の恵みの中を歩く事を助ける、導く。 心を開いて「自分も失敗をする可能性がある事」や「弱さ」を認めるなら、助け、恵みを受ける為に「誘惑にあわせず」と祈ることができる。私達は「起きていて、見て、祈る」事をするのです。

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「愛がすべて」エリック・ジョンソン

「愛がすべて」エリック・ジョンソン

今回は中近東のイスラム教国の出身の「友達」に証しをしてもらいます。 私はイスラムの教師の家庭の10人目の娘です。熱心なイスラム信者として子供の時から真理と神を探し求めました。しかし、国は戦争で荒廃し、死が毎日目の前にあるような暮らしでした。食料配給の列で銃撃戦になった時、イスラムの神に祈り助けを求めましたが、何も起こらず絶望し、「アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神、イエス」に助けを求めたら奇跡的に助けられ、格闘技による宣教師にであい、聖書を読み、イエスが夢に現れ、教会に導かれ、最初の礼拝で聖霊の満たしを受け自由を受け取りました。私の変化で姉たちも救われましたが、私は伝道を止めないので、家族が私にイエスを捨てなければ殺すと私をひどい目に遭わせましたが、イエスが私に赦しと祈りと断食を導き、結果的に姉たち、兄たち、母そして父も奇跡的な癒しを受けて、イエス救い主として信じました。教会がアルカイダのテロで爆破され、自分も死に天国に行きましたが、主が私に天国にいたいか、それとも地上に戻りたいかと選択をくれたので、私は戻りました。全身の皮膚が焼けただれ、目も見えない、頭蓋骨も穴があき脳が見えるような状態から奇跡的に癒され、目は3日で見え、皮膚は一年後に新しい皮膚になりました。 皆さんに神の赦し、愛を受け取ってそれを流す器として歩く事を励ましたいです。

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「聖別できることの喜び」エリック・ジョンソン

「聖別できることの喜び」エリック・ジョンソン

ダニエル1章 私達が神の御国を満ち満ちて受け取る為に、どうしても変化すべきなことがります。それは「人類は良いものであり、良い事を行う」ためにあり、「邪悪であって、悪い行いをする」という考え方や神学を変え、神の視野にそって適応していかなかればならないと言う事です。十字架の前から神は人類を愛していました。怒りの神が十字架で満足して今は良い神なのではありません。 ダニエル達が王の食事で自分が汚れるのではなく、野菜と水を食べる事を願い出た時に、神はご自身の好意を世話係にあたえました。私達は神に導かれていった場所でも「適切さ」や「受け入れられるため」に妥協する事無く、純粋さ、聖さを保ち、自分を聖別することを情熱を持ってする事が必要です。純粋さ、聖さを保つ事は「しなければならない」ことではなく「する事ができる特権」なのです。ダニエル達はネブカネザル王の下で訓練され、王宮で仕えました。この王は邪悪な王でしたが、神は目的があってこの4人の青年を送ったと自分は信じています、そして今現在も多くのダニエル達が神の目的の為にネブカネザル王の王宮の様な状態の社会の場所に送られているのです。しかし、私達信者はダニエルのような信者達の「ネブカネザル王の王宮で仕える」事を恥じ、教会の繋がりから追い出し、切り取り祈りやサポートを止めるのです。 なぜですか?私達は考えを変える事が必要です。

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「憐れみが奇跡を導く事ができる」ビル・ジョンソン

「憐れみが奇跡を導く事ができる」ビル・ジョンソン

イザヤ35章 ヨブ記22:28~30 イエスは憐れみによって動かれました。憐れみは奇跡を導く事ができます。しかし、信者の不信仰を受け入れたり、励ますような事は 憐れみではなく、それは同情することであって、イエスが問題や状況に解決をもたらした方法とは明らかに違います。そのような状態に直面する時にも「しょうがない」といって自我を励ますのではなく、愛して、祈って、御言葉を宣言する事は私達信者のする事です。神の言葉を宣言し、心騒ぐ人に「恐れるな」と語る時、「神が来て救われる」と先に語る時に、超然的な癒しが起こっている事をイザヤ35章から見る事ができます。 私達が御言葉を人々の上に解き放つ時、それは一時の慰めではなく、その人の上に神が働く事ができる「的」を置くようなものです。神の御国を解き放つ事のです。神は全人類を愛していますが、このような場所は神が働きやすい、御国が侵入しやすい雰囲気になるのです。私達の宣言、事を決める事、によって神がそれをなしてくださるのです。あなたの好意、手の聖い事で神が働いて下さるのです。

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「御座から考える」ビル・ジョンソン

「御座から考える」ビル・ジョンソン

コロサイ3:1~4 コロサイ2:9~10 エペソ1;20~ 私達が持つ傾向があります、それはある聖書の真理があまりにも大きく、それを主が啓示して下さっても軽く読み流して、わかりやすい所に進んでしまうことです。しかし私達は福音を自分が理解できるサイズに小さくしてしまうことは避けるべきです。 イエスの死と甦りは「あなたの為」ではなく「あなたとして」行われた事を知っていますか。あなたは死んでいるのです、そしてキリストが甦った時にあなたも甦ったのです。あなたは「死んだ」のであり、あなたが「甦った」のです。 コロサイ2:9「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」ということは、神ご自身のすべてを御子の中に注ぎ、一部分ではなく、全てを宿らせ、そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。」これは、私達皆の頭を混乱させるような難しいことではあります。 また、エペソ1:20~ではキリストを教会に与えたと書かれています。教会、全ての信者の足の下にすべての敵を置かれています。なぜでしょうか?教会、キリストの体が治めるためです。神の御国にある統治支配、リードするとは人々を守り、神からの使命の中に押し出していく、訓練するために与えられています。この世の支配者とは違います。 「思い、マインド」は信者にとって大事な物です。贖なわれた、御言葉と聖霊によって新しくされた思いをキャンバスのように用いて聖霊様は、キリストの思いを私達の思いに与えてくれます。神の御国は「御座ーほふられた小羊」が中心ですから、キリストが考え、見て、感じる様に私達も機能するべきです。私達は自分たちの心、思いが根を張っていかりをおろしているほうの王国を人生の中で現していくのです。それは「全てに勝った真実」なのです。私達は人生の困難な中にある時に、「神様来て助けて下さい」と願いますが、主が私達を招いているのは「私達が御座にすんで、そこから生きる」ようなライフスタイルであり、天にあるものを地に持って来る、天の御国の文化で地の文化を変化と影響を与える事です。

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「改革のレポート」ビル・ジョンソン

「改革のレポート」ビル・ジョンソン

私はスイスで素晴らしいミニストリーの時を持ちました。飢え乾きと謙遜さを同時に持つ事のできる場所には非常に大きな働きを主が与える事を見てきました。 スイスのジュネーブに数日滞在し、500年前にジョンカルビンとその友人達の与えた「改革」について学んできました。ジュネーブは小さい都市ですが、国連の本部があり、赤十字やYMCAもここで創設され、優秀さ、豪華さのある会社のローレックスやカルティエもここで始まりました。しかし、今から500年前、だれも訪れたくないような腐敗し、堕落した、罪に満ちたような町でした。売春や悪事にあふれていたのです。ジョンカルバンと友人達がどうしてもと頼まれて移住して23年間の間与えた「改革」によって造られた町の土台によって今も文化、価値があるのです。都市の改革、変化ということに 私は強い情熱があります。現在イスラム圏では多くの人々が超自然的な主の幻や、夢などによってイエスを受け入れ、救われていますが、そこには理由があるとおもいます。偉大な執り成して達がイスラム圏をターゲットにして祈りました、その結果をみているのでしょう。私達の町を祈りのターゲットにしましょう。

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「今はどんな時か?」ポール・マンワリング

「今はどんな時か?」ポール・マンワリング

エステル4:13,14  ヨハネ17:1 今日は「今はどんな時か?」というメッセージをしますが、その前に、一つ言いたい事があります。それが神は決して無駄にすることなくあなたの事を準備していると言う事です。モーセは改革者ですが、赤ちゃんの時かごに入れられ川に流され、パロの娘に拾われて、王宮で育ち、後に何百のイスラエルの民を「我が民を行かせよ」とパロに語る為に王宮に戻ります。神はモーセを準備しました。王宮で暮らす事で、奴隷では決してわからない。王宮の建物、価値観を教え、後に神の宮建設の為の知識を持たせました。40年間荒野で羊を飼ったのは、羊を飼う事と何百万人の民を導く事に繋がりがあると思いませんか?羊をほふることを覚えて後には「過ぎ越しのいけにえ」として羊を民にほふらせるのです。あなたが今、「自分も荒野で羊を飼っている、こんな事をして何をしているんだ」と思う人がいるでしょう、神は何一つ無駄にせず、あなたを準備しています。 エステルはモルデカイに「あなたがに王妃になったのは、この時のためであったかもしれない」と言いますが、同じような事を預言的に語られた方は多いと思います。今はどんな時でしょうか? リバイバルとリフォーム(改革)の時です。、エステル、イエスは時を知っていました。また、時を知る事で「イッサカルの子達」は知られています。アイデンティティーを知り、時を知ると、自分が何をすべきがわかります。この3つはシナジー、相乗効果をもつのです。 リバイバルには機会、改革には変化がともにあります。そのなかで、あなたはリバイバルをもたらす者ですか?改革をもたらす者ですか?リバイバルは、個人がキリストの力と関係、御国に入り影響され、死に命が、暗闇に光がもたらされる事です。改革は、社会が御国の力と原則の影響により変わる事で、個人がイエスと関係があるかはとわれませんが、この2つが共に働く事が良いのです。私達は自分の描くリバイバリスト、改革者のイメージで自分はそれらの人ではないと勝手に資格を自分から捨ててしまう傾向がありますが、それは止めましょう。あなたはこのような時にあって、どのような者ですか?なにをしますか?

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「セックスと体」ビル・ジョンソン

「セックスと体」ビル・ジョンソン

1コリント5章、6章 私達の時代、文化の中で非常な悪影響を与えている事があります。それは「私達の先祖は猿」という進化論です。それは、創り主はいない、だからデザインもない、目的や自分の人生に対して神に対しての責任を問われる事も無いという様に導いてしまいます。 創造主の造られた物は、なんでもありではなく、一方の流れに置いて「良く、実のなる」様になっています。ですから、神の方法を無視して、一時の快楽を選ぶ時にそれは滅びに終わります。神の方法を行わず、良い結果を期待する事は間違っているのです。 パウロが性的不品行に言及しており、「このような者をサタンの権能に引き渡したのです、それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われる事です」といいます。彼は永遠の命の事を強調して、また性的不品行を犯し、それを悔い改めない信者を「あなた方の中から取り除かない事を悲しむ」とも言っていますが、これはその人が一時的に取り分けられる事で、「神様からの躾や訓練」を受ける事の為です。恵みが罪を覆ってくれるから大丈夫というような教えがありますが、恵みは義を行う為に私達を力づけるものであり、罪を助長する為ではありません。死ぬまで罪のライフフスタイルから自由でないなら、イエスがあなたの救い主ではなく、死があなたの救い主ですと友人がいいましたが、イエスの血潮は十分です。罪を持ちながら私達が生きる必要はないのですから、助けを受けて自由を得て下さい。私達信者は、神の道徳規準を不信者やこの世に用いて測るのではなく、自分たちをそれによって測り、模範としてあるくべきであって、聖書で人々を裁いてはならないのです。

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「真の女性解放の運動」クリス・バロトン

「真の女性解放の運動」クリス・バロトン

創世記1:27、ルカ10:38、ルカ15:8  神は神の似姿で人を造った時、そのうちには「男性と女性」がいたのです。神は男性ではなく、神はご自身を適切に現す時にあたって男性と女性の両方を造られました。ですから、女性を教会の中で圧迫するなら、神の本質の半分、啓示の半分をを私達は失っている、現させていない事になります。堕落した時にイブへの呪いは「あなたは夫を恋い慕うが、あなたの夫があなたを支配する」ことでした、これは全ての男性が全ての女性を支配する訳ではないのですが、近代の聖書解釈がそのように言っているかもしれません。 マラキ書とマタイの間、400年間の沈黙がありましたが、この間にユダヤ教ができました。イエスはこのユダヤ教文化の中にこられました。旧約の律法は220くらい。しかしユダヤ教律法は670ほどあり、そのなかの100ほどは女性を制限し、弱体化させるものでした。1世紀のユダヤ教の文化では女性は男性の所有物であり、教育を受ける事は違法でした。 しかしイエスがした事は女性に教え、価値を認め、与え、力づけました、だからパリサイ人達、サドカイ人達はイエスを憎みました。マリヤ、マルタとの繋がり、「先生」と彼女達が呼ぶ事、マリアはイエスの足もとで教えを聞き、後にマルタは神学的な質問をする事、などこれらはとても過激なことです。イエスが行く所には、女性や子供達がいたが、それ自体で当時は非常にユダヤ教の文化伝統からは真っ向から違反をしていた。イエスは、ラザロをよみがえらせる前に「涙を流した」とありますが、ラザロをよみがえらせるのは4日前から知っていました、ここでイエスはマリヤの心に、ご自身の心をよりそわせ、共に泣き、「私はあなたの情熱を喜ぶ」と女性の現す、神様の情熱を喜ばれた。

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