パーソナルチャレンジ11.2 自制ー私たちの身体で神様を敬うこと

美しさ

男性が女性の美に魅了されるように、女性も美しく見られたいと願います。しかし、これは表面的なことではなく深い意味があります。神のみ言葉を見てみましょう。  

宝石やぜいたくな着物や、きれいな髪形で外見を美しく見せようとするよりも、 4むしろ、やさしく、おだやかな心の持ち主となり、いつまでも色あせない魅力で、自分の内面を美しく飾りなさい。これこそ、神の目に価値あるものです。ペテロの手紙Ⅰ 3:3-4

人は見かけの美しさにすぐだまされますが、そんな美しさは長続きしません。しかし主を恐れる女はほめたたえられます。箴言 知恵の泉 31:30

女性の美もまた良いものです。神は美しいものを造ります、しかし美しさについて私たちの生活の中で間違った認識をしてしまうと、それは罠になってしまう可能性があります:虚栄心、外見ばかりに気をとられてしまう、内面の美しさを養うことをおろそかにしてしまう、、、また自分の美しさに焦点を当て、美しく見られたいと思うことが性欲や欲望を目覚めさせることもあります。

あなたが神の目に美しく映っていることを知ってください。 「あなたはなんて愛らしいのでしょう、私の最愛の人。」神の愛を浴びて、花を咲かせていきましょう。

愛する人よ。あなたのすべてが美しい。あなたには何の汚れもない。雅歌 4:7

王はあなたの美しさを喜んでおられます。主人である王に、うやうやしく仕えなさい。詩篇 45:11


私の身体で神を敬うこと

体は、神様があなたがたに与えてくださった聖霊の家であって、聖霊がそこに住んでおられるのです。あなたがたの体は、自分のものではありません。 神様が多額の代価を払って、あなたがたを買い取ってくださったのです。ですから、あなたがたの体のどの部分も、神の栄光を現すために用いなさい。その所有者は神だからです。
コリント人への手紙Ⅰ 6:19-20

私たちの性は神から与えられたものであり、良いものであることを知っています。私たちの身体は神によって造られたものであり、良いものです。私たちの身体の性的な部分や美は良いものです。特に独身の生活において、性、性的な感情、そして美をもって、どのように自分の身体で神様を敬えばよいのでしょうか。

自分の身体、性、美で神を冒涜することはどういうことか、私はよく知っています。ある出来事を通して、自分の美には時間的に限界があるような気になり、パニックになってしまいました。「 何故、将来の夫はまだ私のことを見つけていないの?神様はいったい何をしているの?時間が足りなくなってきたよ!!!」私の美しさを評価してくれる人がいないもどかしさを感じていました。その焦りから、私はまた、自分の性と美を、自分の都合のいいように表現し、神を敬わない方法で、自分の美しさと性を楽しみました。

性的なことからは長い間手を引いていたのに、その事はまた、眠っていた性欲を目覚めさせてしまいました。私の身体は「注目して!」と叫び声をあげ、必要を満たすために答えを求めていました。しかし、私はもう性欲の虜にはなりません。性欲には仕えません。私はイエスに仕えます。

私は懸命に戦いました。 自分の性をイエスの主権に従わせる道を歩き出しました。これはただ禁欲することや、自慰行為をしないことだけではありません。これは自分の性とそれにまつわる記憶と感情においての戦いであり、大抵の場合一人でいる時に起こります。その瞬間、瞬間に、性欲に支配されることなく、手綱をつけ逆に支配するのです。あなたの舌を制御しなさいとヤコブが言ったように。そして、罪に支配させないように。

ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。
これからはもう、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その欲望に従ってはいけません。 体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。ローマ人への手紙 6:11-13

これは「悪い結果を避けるために純潔さを選ぶ」以上のことです。これは次のレベルです。死に至るまでキリストに従うこと。自制心は自己に死ぬことに似ています。自分が欲しいものに死に、欲しいものを手に入れる方法に死ぬのです。自分の欲望でコントロールするのではなく、その欲望を支配し、自由意志によって自制することを選択します。どうやって?御霊と共に歩むことによって、自制する力がもたらされます。それは神の霊によって生きることの実です。それはキリストにあることの実です。私はもはや、私のものではないのです。


キリストが禁じておられること以外、私には、何でもする自由があります。しかしその中には、自分のためにならないこともあります。たとえ、してよいことであっても、それに捕らえられたら最後、やめようとしても簡単にやめられないことには手を出しません。
[…]また、性的な罪は絶対にいけません。私たちの体は、そんなことのためにではなく、主のために造られたのです。そして、主ご自身が、私たちの体に住もうと願っておられるのです。 コリント人への手紙Ⅰ 6:12,13

自分の心をコントロールできない人は、堀を埋めた城のように戦う力がありません。箴言 知恵の泉 25:28

このように、数えきれないほどの多くの証人たちが、競技場の観覧席で私たちを見つめているのです。だから、うしろへ引き戻そうとする力や、まとわりつく罪をふり捨てて、神の用意された競走を忍耐をもって走り抜こうではありませんか。 あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。そして今は、神の王座の右に座しておられるのです。 罪人たちの恐ろしい反抗を忍ばれたイエスのことを、いつも思っていなさい。あなたがたが気力を失い、弱り果てることがないためです。 あなたがたは罪や誘惑と戦っています。けれどもまだ、血を流すほどのきびしい戦いを経験したことはありません。
益になる神の訓練
あなたがたは神の勧めを忘れていないでしょうか。神は、このように声をかけてくださっているのです。
「わが子よ。
主の懲らしめを、軽く考えてはならない。
主の叱責に、気落ちしてはならない。
主が懲らしめるのは、あなたが憎いからではなく、
あなたを愛しているからである。
主がむち打つのは、
あなたが真に神の子どもだからである。」(箴言3・11-12)
進んで神の訓練を受けなさい。神は、父親として当然のことを、子どものあなたがたにしておられるのです。父親から一度も懲らしめを受けたことのない子どもが、どこにいるでしょうか。 神は、ほんとうの子どもだからこそ懲らしめるのです。もしそうでなければ、あなたがたは神の家族でないことになります。 この世では父親が子どもを罰しても、子どもから尊敬されなくなるようなことはありません。だとしたら、私たちは真に生きることを学ぶために、喜んで神の訓練を受けるべきではないでしょうか。 肉親の父親は、ほんの短い間だけ、それも、限られた知識に基づいて私たちを訓練します。ところが神は、私たちの最善を願って、神のきよさを共有させようと訓練をしてくださるのです。 罰を受けた当初はだれも気持ちがよいはずはなく、むしろ傷つけられたと感じるものです。しかしあとになれば、それが自分の益となり、すべての面で良かったことがわかります。
ですから、しっかり立ち上がりなさい。 そして、まっすぐな道を切り開きなさい。そうすれば、たとえ弱くて足が不自由でも、倒れたり、けがをしたりせず、かえって丈夫になるでしょう。
争いを避け、きよい生活を追い求めなさい。きよくない人は主を見ることができないからです。へブル人への手紙 12:1-14

愛する皆さん。さらに付け加えます。あなたがたは日々の生活で、どうしたら神をお喜ばせできるかを、すでに知っているはずです。そのために、主イエスの教えを学んだのですから。そこでお願いします。というより、これは主イエスの命令と思ってほしいのですが、どうか、その目標に向かってさらに熱心に励んでください。 神が望んでおられることは、あなたがたがきよくなることです。ですから、あらゆる不品行の罪を避け、きよらかな品位ある結婚生活を送ってほしいのです。 神を知らない異教徒のように、情欲におぼれてはいけません。 また、他人の妻を奪って、その人を裏切るようなことをしてはいけません。前もってきびしく警告しておいたように、主はこれらについて厳罰を下されるからです。 私たちが神に召されたのは、汚れた思いや情欲のとりこになったりするためではなく、きよく清潔な生活を送るためです。 もし、これらの戒めに従うことを拒むなら、人にではなく、聖霊を与えてくださった神にそむくことになるのです。テサロニケ人への手紙Ⅰ 4: 1-8

[…] あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。ローマ人への手紙 6:19

愛する皆さん。そういうわけですから、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に喜んでいただける、生きた、きよい供え物としてささげてください。それが神への礼拝となるのです。ローマ人への手紙 12:1